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COLUMN

2020.03.30

「工藤は逃げている」この言葉は呪文のように、その後も僕をつけ回した。(最終話)

島尾さんと出会った春から数えて、2年が経った。

今朝早くの新幹線で、僕はひとり、京都に向かっている。新たな出店の準備のためだ。車内は、品川を出た時点で満席に近い。

 

2年前、島尾さんと共に乗った新幹線が空席だらけだったことを思い出す。

世界中がウィルス禍に見舞われていた。今思えば、日本はどこかのんきだった(桜が好きすぎるのが課題だ)。それでも、学校が休校になったり、知事が「週末は外に出ないで」と言ったり、緊迫の度は日に日に増した。

そんな中、僕と島尾さんは京都に来たのだった。

「大学に入ったとき、まずどこに住みました?」

改札を出たところで、島尾さんが僕に尋ねた。京都タワーがそびえている。何度見ても奇妙な造形だ。

「御室(おむろ)、ってわかりますか?仁和寺があるあたり」

「仁和寺にある法師…」

「徒然草ですね。結局4年間同じところに住みました。島尾さんはどちらに?」

「私は最初の2年間は伏見桃山に。通うキャンパスが移った後半は、今出川通りの近くです」

今出川通りの名前が出て、僕は少し緊張した。ケガからの回復途上にある足を言い訳に、歩くことに集中しているふりをして、黙った。

「じゃあ、仁和寺に行きましょう」

島尾さんはそう言うとレンタカー屋に向かった。僕はただ従う。

その時点で、何年ぶりの京都か、指折り数えてみた。15年ほど来ていなかった。20代半ばに、大学の同級生の結婚式が続き、その頃はしばしば京都を訪れたものだった。木造旅館を改装したような式場が、古都らしいとかで人気だった。

女性は、友人の結婚式に際し、顔で笑って、腹で呪っているというような話をよく聞くが、本当なのだろうか?

僕にとっては、飲んで笑って余興して、ただただ楽しい思い出だ。

でも、その頃から「次は自分が」という意欲は、心のどこを探っても見つからなかった。

道は空いていた。丸っこい小型車のハンドルを、島尾さんが握っている。ふと、知らない街に来たような気がした。

 

仁和寺近くに車を停めた。

お参りするより先に、僕が暮らしたアパートを探そうという話になった。島尾さんはそんなことで楽しいのかとも思ったが、なぜか僕より乗り気だった。

「コーポ中村」はまだあった。あまりにも当時のままで、少し気味が悪いほどだった。いまにも、だらけた格好の若い僕がドアを開けて出てきそうだ。

「どの部屋だったんですか?」

「2階の角です。青いカーテンがあるところ」

最初の半年ほどは、ずぼらをして、カーテン無しで過ごしていた。見兼ねた当時の彼女が付けてくれたのは、橙色のカーテンだった。太陽が当たると、窓が燃えているかのように見えた。

外観を眺めていると、記憶がよみがえる。

「一度、お隣さんが怒鳴り込んできたことがありました。ギターがうるさいって。しかも玄関からじゃなくて、ベランダとベランダを仕切る板を蹴破ってですよ。あれは怖かったなあ」

時が止まっているのは「コーポ中村」だけではなく、その周囲も同じだった。もともとが古い住宅地なので、四半世紀やそこらでは、誤差程度の違いしか現れないのかもしれない。よく買い物をした「グッドマート」が健在だったのは嬉しかった。当時から、いつ潰れても不思議のなさそうなスーパーマーケットだったのだ。

「250円の弁当があったんです。しかも夕方になると150円まで下がるから、そればかり食べていました。友達にも勧めたら『悲しみの味がする』と言われて、そいつとはあまり遊ばなくなりました」

ついつい取り留めのない昔話を、島尾さんに聞かせてしまった。島尾さんは穏やかに笑っていた。

気分としてはどちらでもよかったが、仁和寺にも立ち寄った。

速く進めない僕の足を気遣ってか、それとも目的のない旅のせいか、島尾さんはとてもゆっくり歩いた。

境内は桜の名所らしいが、遅咲きなのか、まだつぼみだ。人影は少ない。

「工藤さん、バンドやっていたんですか?」

「ええまあ」

「ライブもやったんですか?」

「はい、ちょこちょこと」

自分でギターの話をしておきながら、いざ聞かれると恥ずかしい。

「その頃のライブハウスとかスタジオとか、残っていますか?」

「ああ、どうだろう。京都も変わったでしょうし」

そう言いつつも、変わらない「コーポ中村」周辺が頭に浮かんだ。もしかして京都は変わらない街なのか。だとしたら恐ろしい。

「行ってみましょうよ」

「え、行きます?」

行ってどうなるものでもない。しかしそれを言い出せば、今回の旅そのものがそうだ。

「でも、僕の思い出ばかりじゃ気がひけるというか…」

「工藤さんの思い出が知りたいんです。そのために京都に来たんです」

もう何度目になるのだろう。島尾さんの静かできっぱりとした物言い。僕はこの口調を前にすると、たちまち無力なのだった。いまやその無力感は、少し心地よかった。

僕は助手席に座ってシートベルトをしめた。

 

京都市役所の真隣に、その古いビルはあった。なんだかんだ言って、東京とは比べ物にならないほど、街が残っている。

「スタジオM’s」は確か4階にあった。エレベーターはない。

石造りの階段は狭いうえに急で、すり減って滑りやすい。ここをギターを担いで4階まで上ったものだった。

アキレス腱がつながったばかりの足で、慎重に上る。

驚くべきことに、スタジオは記憶のまま残っていた。ロビーにおかれた年季の入ったソファーや、タバコの焼け焦げだらけの床。壁中に貼られたポスター。

「うわあ」

思わず声が出た。

ソファーに島尾さんと並んで座った。スプリングが完全に馬鹿になっていて、尻が冗談のように沈む。昔のままだ。

唐突に胸が痛んだ。

「コーポ中村」を見ても「グッドマート」を見ても、こんな気持ちにはならなかった。

「工藤は逃げている」という言葉を思い出したからだ。

「プロに憧れているくせに『プロを目指すなんて恥ずかしい』みたいな顔しやがって。お前はいつも逃げ道を残している。そういう奴のことを俺は信用できない」

このソファーで、僕はバンドの仲間にそう言われたのだった。頭を思い切り殴られたような気がしたが、それでも僕はヘラヘラ笑いながら、そいつの話を聞いていた。笑うことで、辛うじて持ちこたえようとした。メッキの剥がれた自分から目を背けた。僕はいつもそんな感じだった。

「工藤は逃げている」

この言葉は呪文のように、その後も僕をつけ回した。しかし、僕はこの一文からも、逃げた。大人になるにつれ、記憶から遠のいた。もう逃げ切ったはずだった。

「工藤さん」

島尾さんが呼んでいた。すぐそばにいるのに、ずいぶん遠くから聞こえるようだった。

「私、工藤さんを昔から知っていたことにしてくれませんか。このスタジオにも来たことがあるし、仁和寺も歩いたことがある。150円のお弁当も食べたことがある」

一瞬、島尾さんの真意を測りかねた。何も言えない僕に、島尾さんは続けた。

「私、京都をやり直したいんです。工藤さんが私と同じ時期に京都にいたことが、私には大切な気がするんです」

「工藤は逃げている」依然として、頭の中では、バンド仲間の声がループしている。そこに島尾さんの声が重なった。

「工藤さん。私はあの日以来、自分の何かを、木村くんのせいにして生きてきました。喜びとか、悲しみとか、それは本当は私のものなのに。私は生まれ変わりたい。それができるとしたら、この京都で、工藤さんと、だと思うんです」

僕は、嬉しかった。島尾さんの言葉が嬉しかった。あなたは20年前から、僕の恋人です。あとは、そう言えばよかったのだ。

それなのに、僕の舌は思ったように動かなかった。

「島尾さんは島尾さんのままでいいと思います。いままでの島尾さんがいたから、いまの島尾さんが素敵なのです。キムタク。いいじゃないですか。僕も最近キムタクが好きな気がしてきました」

気がつけば、そんなセリフが口からこぼれていた。本心には違いなかった。しかし、この期に及んでなお、僕は逃げたのだ。

島尾さんはまっすぐ僕を見ていた。目が、いよいよ深く澄んでいた。こんなに綺麗な目を、僕は知らない。

やがて、島尾さんの目が潤んだ。涙が、こぼれる寸前でしばらく揺らいでいた。僕はなぜか、涙が流れるところを見たいと思った。しかし、その前に、島尾さんはハンカチを取り出すと、そっと両目をおさえた。そして、少しだけ笑った。

島尾さんが結婚したらしい、山際からそう聞いたのは、それから1年あまり過ぎた頃だった。

「なんでお前が知ってんだよ」

僕にしては素直な気持ちが言葉に出た。

「来たんすよ、店に。眼鏡作りたいって」

僕はこの頃すでに、本部に異動していたのだ。その日は商品チェックのため、久々に代官山店を訪れていた。

「で?」

「メタルフレームばっかり見てるから、セルフレームもおすすめしたりして。ほら今月の強化商品、セルじゃないですか」

「そんなのはいいんだよ。なんで結婚したってわかった?」

「だから前も言ったじゃないですか。俺、馬鹿だけどそういうの気づくんですって」

「なんだよ、勘かよ」

「いや、まあ、伝票の名字も変わってたし…」

山際は、少し申し訳なさそうに小声で言った。彼なりに気を遣っているのだろう。

「あと、関係ないんですけど、最近、工藤さんの喋り方、なんかキムタクっぽいっすよ。意識してんすか?」

 

京都駅に着いた僕は、四条通りにある準備中の店舗までタクシーを走らせた。

僕は新店舗で使う、棚や椅子のセレクトを任されていた。主にヴィンテージ家具屋で買い付けたが、店の中心に据える予定のソファーはあえて買わなかった。

「スタジオM’s」が移転するという話を偶然聞き、あのソファーを譲ってもらうことにしたのだ。先週、スプリングの交換を終え、店に届いたのだそうだ。

預かっていた鍵を使って、誰もいない新店舗に入る。スタジオにあったときより、少し小綺麗にしてもらったソファーが、僕を出迎えた。なぜか、兄に会ったような気持ちだった。僕には兄弟はいないのに、そんな気がした。

ソファーに体を沈める。懐かしいにおいがする。僕は少し目を閉じた。

どれくらいそうしていたのだろう。

「ひたってんじゃねえよ」

キムタクのような声が、どこからか聞こえた。

 

 

文/大澤慎吾