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COLUMN

2020.02.10

<まさかキムタクと戦えというのか>私たち、急いだ方がいいと思うんです。私、これからも会いたいから。(第2話)

なんで「釣り」なのか、と疑問に思う一方で、僕の頭には答えも浮かんでいた。

僕が京都に住んでいた頃、世間ではある噂が巡っていた。それは、ブラックバス釣りを好むキムタクが、趣味の充実のために琵琶湖沿いのマンションを購入したらしい、というものだ。

「知り合いの知り合いが、釣竿を持ったキムタクを駅で見たらしい」なんて、もはや口裂け女のような扱いだった。いくらなんでも「駅で」はメチャクチャだろう。

当時は琵琶湖のみならず、全国各地に「木村拓哉マンション購入伝説」があったらしい。ファンでもない僕にとっては、真偽のほどは重要ではなかった。全国各地にそんな俗説が立つとは、桁違いのスターだなと妙に感服したものだった。

島尾さんが木村拓哉ファンだというのは、僕の推測の域を出なかったが、「釣り」に誘われたことで、より強固な仮説となった。

(実際は、キムタクファンだから釣りをする、なんてことはあり得ないのだが、この時点ではそう思っていた)

島尾さんと約束した日までは、あと3日しかない。今から釣りのスキルを身につけることは不可能だ。

しかし、何の対策も講じないのは不安が残る。仕事帰りに釣り具屋を覗こうと思った。思いつくのはその程度だった。

職場のある代官山近辺の釣り具屋を検索してみると、渋谷駅の南100メートルの地点に1軒あるという。これまでに何度も前を通っているはずが、ほとんど印象がない。

おずおずと入店した僕の目の前に、おびただしい数の釣竿が並んでいる。大人の背丈を超えるほどの長さ。そして繊細と表現していいほどに細い。

それにしても、これほどの数に細分化する必要があるのだろうか。

「お手に取りたい時は、スタッフにお申し付けください」と注釈の張り紙。顔だけ近づけて値札を見てみると、5万円、7万円、物によっては15万円なんてのもある。うわ、高い。

この感じ、何かに似ていると思ったら、眼鏡屋だった。僕の勤務先で扱っている眼鏡は、そこそこ高い。それこそ5万円ならお手頃な方で、物によっては15万円だ。「うわ、高!」とつい口にするお客さんもいる。

値段にはそれぞれ理由がある。きっとこの釣竿にも高額になるだけの意味があるのだろう。

閉店間際の店内には僕以外に客はおらず、若い店員はレジ締めの作業に集中していた。このタイミングで、知識ゼロの素人の相手をさせるのは気の毒だ。入口近くに積んであった「激暖!裏ボア長靴」というのだけを買って帰った。1980円だった。

釣りが未経験であることは、島尾さんにも伝えてある。

「道具は心配しないでくださいね」と優しい言葉ももらっている。それに甘えた僕は、丸腰のまま当日を迎えた。

ハンドルを握る島尾さんが子供のように見える。島尾さんは細身だが、別に小さくない。車が大きいのだ。

待ち合わせのコンビニ前に、島尾さんはなんとジープで現れた。まだ夜明け前、運転席の人影に目をこらすと、確かに島尾さんだった。

「おはようございます」

にこやかに普通の挨拶を交わしているのが、妙だった。

僕は助手席に座ることを恥じるタイプの男では決してない。それでもどこか引け目を感じざるを得なかった。

どうにも島尾さんがかっこよすぎるのだ。

釣り用なのだろう、カーキ色のサロペットを着ている。その中にはチェックのネルシャツ。そんなアイテムを野暮ったくならずに着こなしている。

まるでキムタクみたいだ。性別も雰囲気も違うのに、そう思った。

僕は、手持ちの洋服の中からできるだけアウトドアっぽいものを選んだが、とても釣りに行くようには見えなかった。犬の散歩がいいところだ。裏ボア長靴だけが浮いていた。

ジープにしても、キムタクが乗ったら似合いそうだった。そういえば、キムタクがパイロット役をやっていたとき、車種は違うが四駆の車に乗っていた。確か旧車のランドクルーザー。安住アナが同僚役で出てたな。僕は結構、キムタクに詳しいのかもしれない。そう考えると、なぜか落ち着かない気持ちになった。

気を取り直して、隣の島尾さんに向かって話しかけた。

「釣りがお好きだなんて、少し意外でした」

「そうですか?最近は女性も結構いますよ」

「きっかけとかあったんですか?」

つい聞いてしまった。木村くんの影響で、とか言い出したりして。

「父の影響です。私、兄がふたりいるんです。父が兄達に教えているのを見てたら自然と私もやるようになって」

「あ、そうですか。お父さんがねえ、お兄さんと。そうですか。いいですね3人兄妹。僕はひとりっ子だから釣りとか全然」

安堵して、よくわからないことを口走った。頬が熱くなるのは恥ずかしさのせいか、それとも「激暖!裏ボア長靴」のせいか。

勝手にキムタク基準で考えていたので、てっきり河口湖とか芦ノ湖あたりでブラックバスを釣るのかと思っていたのに、1時間ほどで着いたのは海だった。

大磯港とある。アルファベットのEみたいな形をした防波堤で、何人かの釣り人が糸を垂れていた。

島尾さんは車から道具一式を取り出すと、慣れた様子で防波堤の突端に向かった。僕はそれを後から追いかける。海の上にあるはずの太陽は、薄い雲に遮られて、ぼんやりとした光を放つだけだった。

それからの3時間余りは、とにかく辛く苦しいものだった。

海からの風は冷たく、容赦なく吹きつけた。時折小雨も降り、ダウンジャケットを湿らせた。そんな中で、島尾さんに釣りの手ほどきを受けるのは、もはや新手のSMのようだった。

風雨や寒さは大人なので我慢できた。しかし、自身の役立たずっぷりを思い知らされるのが堪えた。糸の通し方、餌の付け方(生き餌のグロテスクさ!)、竿の振り方、魚が食いついたときの間の取り方等々、島尾さんはとにかく優しく丁寧に教えてくれるのだが、何ひとつ満足にできない自分に落ち込んだ。

やがて、島尾さんを憎みたくなった。美しく澄んだ目をして、なんでこんなことをさせるのか。

自然と口数が減った。周りの釣り人達が、哀れむように僕を見ている気がした。

雨粒がだんだんと大きくなり始めた。島尾さんが「今日は引き上げましょうか」と言ったのを聞いて、助かったと思った。助かったと思うあたりが、なお情けない。

結局、1匹の魚も釣れなかった。僕は屈辱感と徒労感でいっぱいだったが、最後の虚勢を張って、「いやあ、これからは魚を大事に食べます」と言ってみた。笑ったつもりだったが、口元がゆがんだだけだったかもしれない。

帰りの車中。僕はどんよりとした気分のまま、ワイパーが左右に動くのをただ眺めた。

驚いたことに、島尾さんは午後から出勤だと言う。島尾さんは表参道の子供服店の店長だ。親会社は、このご時世に強気の出店攻勢を仕掛けており、どの店舗も常に人員不足なのだそうだ。

海釣りの後に出勤。細い体のどこにそんな馬力があるのか。

「運転代わりましょうか」と申し出たが、「大丈夫です」とにこやかにかわされた。無力感が募る。

高速走行を続けるエンジン音の奥で、意を決したように島尾さんが切り出した。

「最初に過酷なことをしておくのもいいかなと思うんです。冬の釣りなんて、ベテランでも嫌がります。寒いし、魚は沖に逃げてるし。今日みたいに1匹も釣れないってこともよくあります。じゃあ、なんで来たのって思うでしょうけど、何て言うか、そんな辛い釣りを一緒にした相手のことは忘れない気がして」

島尾さんは静かに、でもはっきりと言った。

「こんなこと言うと男の人って嫌がるかもしれませんけど、私たち、急いだ方がいいと思うんです。私、これからも会いたいから」

なんてことだ。僕は島尾さんに好かれているらしい。中年の男心は乱れた。嬉しくないわけではない。美しい人に、「これからも会いたい」と言われたのだから。

しかし、すぐのぼせ上がるほどには、僕は素直ではなかった。島尾さんが木村拓哉を「木村くん」と呼んだのが、まだ尾を引いている。

キムタクを好きな人と、俺はやっていけるのか。今日だってキムタクだったら、大物の3、4匹かっこよく釣っているだろう。それに比べて俺と来たら。

愛すべきダメ男、みたいな線も、一種の可愛げとしてありだと思っていたが、やはり男はかっこよくないといけないと知った。キムタクのように。

その日以来、僕の心のまあまあな部分をキムタクが占拠し始めた。

 

文/大澤慎吾