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COLUMN

2020.03.16

「娘とはどういうつもりの付き合いか」「わかりません」僕の返事を聞いたお父さんの表情は、なんとも形容しにくいものだった。(第7話)

島尾さんのお父さんは、穏やかな表情だったが、それが却って怖かった。

「娘とはどういうつもりの付き合いか」と聞かれた場合、相手が求める答えは「結婚を前提に…」というやつなのだろうと、頭では理解できる。

しかし、その質問が自分の身に降りかかったことを、体が拒絶しているようだ。夏でもないのに汗が止まらない。

どうにか答えをひねり出すとすれば、

「お付き合いを前提としたお付き合いを…」。

まるで出来損ないの禅問答みたいになりそうだった。下手をすれば、お父さんに叩き斬られる。

いや、待てよ。「結婚を前提に…」でも叩き斬られはしまいか?むしろ、それこそ、いちばん叩き斬られるやつではないか。

どの道、俺は今日叩き斬られるのか?

島尾さんの顔をチラ見する。美貌というやつは、何を考えているのか想像がつかない。どこか達観したような表情だ。

何か言わねばならない。黙っていて許されるのは子どもだけだ。

思えば、流されるままの人生だった。

自分の成績で「ちょうど」受かる学校へ進んだ。

誰かに好かれたら、その誰かを好きになった。

人から誘われるままに、仕事を変えた。偶然の重なりに身をまかせてきた。

そしていま、荻窪でこれだ。

無様だな。と思った。

部屋に並ぶ無数のトロフィーが、虚しいハリボテのように見えた。僕がこの部屋にいるからだ。僕がいると、いつもその場が嘘くさくなる。せめて嘘をつくのはやめよう。いつしか汗はピタリと止まっていた。

「わかりません」

僕の声がした。僕が言ったのだろう。

「わかりません」

間を置かずもう一度、僕の声がした。ほおっておくともう一回言いそうだったので、我に返って食い止めた。

僕の返事を聞いたお父さんが浮かべた表情は、なんとも形容しにくいものだった。

期待した答えではなかっただろうが、さりとて不満げでもなかった。困惑というよりは、むしろ安堵に見えた。少なくとも怒っているようには見えなかった。

そうやってお父さんの表情を読み取ろうと努めたのは、半秒にも満たないようなわずかな時間だっただろう。しかし、島尾さんの表情より先に、お父さんの顔色を伺ったことに、自分自身落胆した。

島尾さんの顔はさっきより白く見えた。綺麗だった。綺麗だと思ったことに、また落胆した。

荻窪駅までの道は、ひとりだった。逃げるようにして、島尾さんの実家をあとにした。ガレージにはいつか乗せてもらったジープが見えた。

巨人が、切れ味鋭い包丁で区画整理したかのような、一直線の街路を歩いた。似通った年代の戸建住宅が、律儀そうな顔をして立ち並んでいる。あたりに人影はまばらで、日がもうすぐ沈みそうだった。

どうしろと言うのだ。さっきから同じセリフを喉の奥で転がしながら歩いている。どうしろ言うのだ。

僕は、答えのない問いに、からっきし役立たずだった。どうしろと言うのだ、と呟くばかりだった。

ふと、キムタクは工藤静香の実家に挨拶に行ったのだろうか、と思った。行っていても行っていなくても、僕には関係ないが、きっと行ったのだろうなと思った。いまの僕の歳より、うんと若かっただろうに。

お父さんが島尾さんのことを「この子」と呼んだり、島尾さんが両親のことを「パパ」「ママ」と呼んだりするのを、僕は聞いた。そのとき、僕は居たたまれない気持ちになった。時間が止まっているようで、正直に言うと、少し不気味だった。

島尾さんの両親は、娘の過去の出来事を知っているのだろうか。

きっと知っている、と思う。僕が「わかりません」と繰り返したときにお父さんが見せた表情は、やはり安堵なのだろう。「わかりません」という僕の答えは、実のところ、限りなく正解に近かったのかも知れない。

島尾さんは時折、僕のような男を連れてくるのではないか。攻撃は最大の防御なり。親にあれこれ言われる前に、男を連れて出頭する。親の方も分かっていて、茶番に付き合う。それが島尾家の風景なのではないか。

僕は初めて、島尾さんのために泣きそうになった。そして、はっきりと思った。僕は島尾さんが好きだ。

変わり者に惹かれやすいだけだと言われようが、相手のペースに巻き込まれているだけだと言われようが、それが僕だ。

駅に近付くにつれ、人通りが多くなった。駅前まで来ると、雑踏と呼べる賑わいを見せていた。僕は立ち止まった。

いま僕は、この人混みに紛れてしまってはいけない。

僕は、回れ右をした。そして来た道を戻り始めた。早足で歩いた。

島尾さんに会って、そして告げよう。僕と付き合いましょう、と。

薄暮れの時間は目が見えにくい。歳をとってきた証拠だ。そんな現象とは裏腹に、僕の心は若かった。少しモヤのかかった住宅街を僕は歩いた。心臓の音が聞こえそうだった。あと数ブロックで、島尾さんの家だ。歩くスピードではもどかしく、僕は走った。本気で走った。全力疾走なんて、何年ぶりだろう。ガレージのジープが見えた。あともう少し。僕はさらにスピードを上げた。

そのときだった。何者かが僕の右ふくらはぎを痛打した。バットで殴られたような激痛だった。右足はもはや体を支えることはできず、僕は前のめりに転倒した。なんとか両手をついて顔面は守ったが、派手に回転した勢いで眼鏡が飛んだ。一瞬、島尾さんのお父さんにやられたのかと思ったが、そんなはずはないと打ち消した。ぼやけた視界ながら、辺りに人の姿がないことはわかった。一体何が起こったというのか。

立とうにも右足が使えないので難儀する。なんとか左足に重心をかけて立ち上がった。しかし、一歩も動けない。

アキレス腱が切れていた。

「工藤さん。受けますね。アキレス腱断裂って。ギプスにメッセージ書きましょうか?」

と言って、山際が笑っている。病院まで見舞いにきてくれるとは、なかなか優しいところがあるが、ニヤニヤしているのがムカつく。僕はどうにも後輩にナメられやすい。

「悪いね。迷惑かけて」

「大丈夫っすよ。店は相変わらず暇なんで」

それって大丈夫なのか、とも思うが、自分がこの有様なので、偉そうなことは言えない。

あの日僕は、島尾さんの実家前で進退窮まった。島尾さんを呼ぶか、救急車を呼ぶか、迷った。

島尾さんを呼び出す以上は、気持ちを伝えなければいけないが、この足の状態では不利だ。あまりにも格好悪い。

しかし救急車を呼んだところで、何せ家の真ん前だ。サイレンの音や赤色灯のチカチカで、いずれ島尾さんの知るところとなるだろう。

僕は意を決して、島尾さんを呼び出した。いま、お家の前にいます。聞いてもらいたいことがあります、と。

島尾さんはすぐに来てくれた。玄関のドアが開いて「ふわり」という擬音が実際に聞こえるような登場だった。いつも謎めいた表情の島尾さんが、この時ばかりは嬉しさを隠していなかった。僕にもはっきりわかった。胸が熱くなった。

しかし、僕の異変を見逃す島尾さんではなかった。その足、どうしたんですか⁉

結果的に、島尾さんが救急車を呼んだのだった。僕の告白は宙に浮いたままだ。

「そう言えば、あれ売れましたよ。工藤さんが推してたやつ」

「おっ、リンドナー?」

「そうそれです」

「へえ、それはよかった。わかる人にはわかるんだよ」

ゲルノット・リンドナーはドイツの巨匠だ。純銀フレームのスペシャリストと言われている。

「どんな人が買ってくれたの。おじさん?」

「いえ、若かったすよ」

「ふうん」

僕は時間を気にするそぶりをした。案外、山際が立ち去らない。

「あ、それから、角にあった『おにぎりカフェ』、潰れたみたいです。やっぱりカフェではパン食べたいっすよね」

別の話が始まった。もう帰れよ。山際の軽やかな身のこなしを見ていると、自分がどんどん惨めになってくる。

山際から目をそらして、窓の外を眺めた。大したものが見えるわけではない。ビルの合間に首都高がわずかにのぞいている。車の走るのが、影だけ見える。

かすかな予感があった。言葉では説明し難い。ただ、そんな気がした、としか言いようがない。

島尾さんが来る。10秒以内に。

山際に会わせたいとは、別に思わなかったが、仕方ない。

10数えて、廊下を見ると、本当に島尾さんが立っていた。

 

文/大澤慎吾