病室に風が吹きわたったようだった。もちろん本当に風が吹いたわけではない。
島尾さんが、僕の顔を見て、小さな声で言った。
「こんにちは」
嬉しかった。我ながら驚くほどに。
僕はもう、島尾さんに会えないかとさえ思っていたのだ。
両親の前で袖にしておきながら、すぐノコノコと戻ってくる。そして、勝手にアキレス腱をやられて、救急車まで手配させる。まともな男のやることではない。
しかし、島尾さんは来てくれた。
「わあ!」と頓狂に言いそうになるのをこらえて、できるだけかっこいい声で「どうも」と返そうなどとモタモタやっていると、山際の声が頭上で聞こえて、僕を追い抜いていった。
「あ、リンドナーの!」
「ああ!この前はどうもありがとうございました。お見舞いにきてたんですね。仲良しでいいですね」
山際と島尾さんが、親しげに話している。なぜだ。
「工藤さん、さっき言ってたリンドナーのお客さんですよ。今日のコートもかわいいですねえ。あれ?何?どういうことですか?ふたり、知り合いですか?」
口が軽い。悔しい。僕はまだ「こんにちは」も言えていない。
焦りがバレるのも癪なので、余裕ある態度を心がけた。
「島尾さん、わざわざすみません」
僕は山際を無視して言った。名字、しかも「さん」付けだ。察せよ。いまが大事なときなんだ。
そう言えば、島尾さんもなんで僕のいないときに買い物しているのだ。
「知り合いっていうか、実家に来てくださいましたよね」
島尾さんも変な言い方をする。
「え!なんすかそれ。ガチっすか?」
なんだよガチって。
体が動かないというのは、想像以上のストレスだ。いちいちイライラしてしまう。
いや、イライラの原因は他にもある。
僕がアキレス腱を切って、病院に担ぎ込まれているときにも、世の中は動き続けていた。
ウィルスのニュースは、刻々と変わる情勢に反応して、日に何度も報じられた。
そして、なぜかキムタク関連のニュースも、毎日何かしら届いた。
僕は今朝、それを見た。右足を固定されたベッドで。
キムタクにまつわる報道を、島尾さんが見ていないはずはない。
「木村拓哉長女、モデルデビュー」
ネットニュースの上位に見出しがおどっていた。
20年近く前、京都・今出川通りの婦人科。手術を終えた島尾さんが、そのロビーのテレビで目にしたという「工藤静香妊娠」の報せ。そのときの小さな命が、大きな見出しとなって、人々の目に触れた。
僕は「なんでこんな時に」と思った。島尾さんの心を思いやったわけではない。我が身を案じてのことだ。島尾さんの心中が複雑になれば、僕の告白作戦にも影を落としかねない。
あまりにも身勝手、あまりにも狭い了見。よその娘さんが自由に生きて何が悪いのか。
ニュースのコメント欄はバッシング大会だった。
「親のコネ」「実力もないくせに」「やり方が汚い」…
多くの人が怒っていた。
長女は、わずか1日たらずで、普通の人なら1000回生まれ変わっても経験しない数のバッシングを受けたことだろう。
改めてキムタクという人のことを考えた。
見ず知らずの他人に、妻や娘の悪口を言われまくる人生。並の男に耐えられようはずがない。この時点でもう勝負はついている。我々はキムタクになれない。
このように、気分が落ち込んでいるところに、山際が、そして、島尾さんが現れたのである。
島尾さんの表情は明るい。特段変わったところは見受けられない。
「足の経過はどうですか?」
島尾さんが医者みたいなことを言った。
「はい。おかげさまで順調です」
僕は、患者らしく答えた。手術は無事に済んでいた。この調子なら3日後には退院できそうだった。
山際は、いつものニヤニヤ笑いを消していた。会話のぎこちなさを見抜かれているようだった。
「この大人たち、何年生きてんだ」という顔にも思えた。
そこまで見透かすならば、帰ってくれてもよさそうなものだが、山際は帰らない。
「工藤さん。あの日、どうして戻ってきてくれたのですか?お話があるって、言ってましたけど」
島尾さんは、会話に助走がない。気づくと踏み切り板に立っている。
「あ、はい、そうなんです。話があったんです。あったって言うか、いまもあるんです、この辺に」
僕は自分の胸のあたりを指差してから、ひどく後悔した。山際がいるのに、おかしなことを口走ってしまった。
「聞きたいです」
島尾さんは目をそらさずに言った。
「いま、ですか」
僕の声はかすれていた。
「はい。いまです」
島尾さんには、山際の姿が見えないのだろうか。窓枠に腰掛けた、長い足を投げ出した、白いパーカ姿の若者。いますよね?左隣に。
僕は、山際に目配せをした。席を外せ。しかし山際には通じない。自分にも聞く権利があるかのように、居座ったままだ。
なんだ?嫌がらせか?俺、そんなに厳しくしたことないだろ?お前が入ったばかりの頃、会計ミスだって、何度も助けてやったじゃないか。
追い込まれている。山際との思い出はどうでもいい。
島尾さんは真っ直ぐな視線を、揺るがせにしない。思えば、初めて会った日も、この目で僕のことを見ていた。
その目に気付いたときから、もう決まっていたのだ。
だんだん、僕の視界からも山際が消えてゆくような気がした。この部屋にいるのは島尾さんと僕、そして向かいのベッドのお爺さん(風呂場で転んだらしい)だけだ…。そんな気がしてきた。
上体をできるだけ起こし、島尾さんに向き直った。
「島尾さん、好きです。付き合ってほしいです」
言ってしまった。声もかすれなかった。こんな告白らしい告白は中学生以来だろう。
島尾さんの表情の変化を、1秒たりとも見逃すまいと、僕は上体を起こし続けた。
天にも昇る心地だった。同時に審判を待つ罪人の気分でもあった。恐ろしく長い時間に思えた。首筋が引きつりそうだった。
島尾さんの目の深いところから、明らかな喜びの萌芽が見てとれた。そしてそれは顔全体に、環を描くようにゆっくりと広がっていった。
僕は、祝福を受けていた。天からも。地からも。ベッドからも。ギプスからも。あとは島尾さんからの言葉を待つばかりだった。形のいい唇がまさに動こうとしていた。
「いやいやいや、ダメでしょ」
山際の声が病室に響いた。
「だって、島尾…さんでしたっけ?この前店来たとき、男の人と一緒だったじゃないですか。あれただの友達じゃないでしょ。俺、馬鹿だけどそういうのはわかるんです。あと、俺、空手やってたんで、そういう曲がったこと許せないんです」
なんだなんだ。なんで山際が喋っているのだ。なんか色々言ったな、いま。
「工藤さんって、ちょっと頼りないけど、いい人なんです。いい人騙しちゃダメでしょ」
山際は珍しく興奮気味だった。
「山際くん、一回黙って」
僕は、山際に向かって指をさした。それと、頼りないってなんだよ。ゴタゴタしていると、島尾さんの声が聞こえた。
「確かに、彼はただの友達ではありません。大事な友達です。昔お付き合いしていました」
少し困惑しながらも、しっかりとした口調でそう言った。
島尾さんは、元カレの買い物に付き合っていたらしかった。うちの店を紹介してくれたのだ。リンドナーの眼鏡を買ったのは、島尾さんの元カレだった。なかなか趣味のいい男じゃないか。僕は少し強がった。
山際は納得がいかない様子だった。空手のくだりはよくわからなかったが、山際にも意外と暑苦しいところがあるのは、ちょっと嬉しかった。
「いいんですか、工藤さん。騙されてませんか」
まだ言っている。
「いいんだよ。昔の恋人を大事にするのは、なかなかできることじゃないよ」
これは本当にそう思う。
結局のところ、僕の告白はまたしても、変な感じになってしまった。もう一回やればいいのか?
「工藤さん、ありがとうございます」
島尾さんは、また深い目に戻っていた。
「はい」
僕は気力の限界を迎えそうだった。
「工藤さん、私と京都に行ってくれませんか?必ず行ってくれませんか」
島尾さんが言った。
「行きます」
なぜ京都?とか、この足の状態で?とか、煩わしいことはもう考えずに、僕は即答した。
文/大澤慎吾