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COLUMN

2019.09.02

二十歳、わたしはチャンスを掴みかけた。でも、母はそれを許さなかった。(第9話)

自分より伸び伸びした人を見ると、わたしは胸が苦しくなるのだ。

どんな親に育てられたらこうなるのだろう、といつも考えてしまう。

そんな自分にさらに落ち込む。その繰り返し。

 

年齢も職業も風貌もバラバラな男たち3人と、食卓を囲んでいる。

80歳のイラストレーターの大きな手には、絵の具がついたまま。気に留めるそぶりもなくパンをちぎっている。

還暦あたりの骨董屋の手は色白で柔らかそうだ。優雅に、それでいてテキパキと料理をサーブする。

そしてもう一人はドラマーだという。わたしより若いことは間違いなさそうだが、10歳若いのか5歳若いのか。雑な印象の両腕のタトゥーとは裏腹に、長い指は儚げだった。

ピアニストとは少し違う。ピアニストの指はたとえ細くとも、節の一つ一つが強く主張するようなのだ。

そこにいるドラマーの指は、どこかふわふわと漂うようだった。

実際に、宇田川大介の指は話すたびに宙を舞った。話すと勝手に手が動いてしまうのだ。食べる、飲む、それだけでも人は手を使うのに、話すときまで手を動かすから、えらく忙しそうだった。

彼は大阪を拠点に活動するロックバンドの一員らしい。父の絵が好きで、3年前に自分から共演を持ちかけたのだそうだ。

「センセイ、ほんまに大丈夫なんですか。普通その年で癌やったら、もうあかんでしょ」

右手に缶ビールを持ち、左手をひらひらと翻しながら、大介は言う。父とマツバ氏が同時に笑う。わたしはペースに乗り遅れたままだ。

「明日の出番って30分ですよね。えっ45分あるんでしたっけ?長いなあ。体もつかなあ、俺が」

「明日、京都の寺でライブペインティングがあるんです。大介くんのドラムに合わせて、先生が描くんですよ。このコンビ、結構人気でしてね」

 

父は30年も前から、様々なミュージシャンと組み、ライブペインティングを行なっている。ジャズトランペッター、ロックギタリスト、現代音楽家…。何を描くかはそのとき次第。彼らの出す音に触発され、父の筆はいつもに増して激しくうねる。らしい。実は生で見たことはない。

「雪さん、明日お時間ありますか?」

マツバ氏がわたしに尋ねる。

「はい。時間はありますけど」

「金戒光明寺です。地元では“くろだに”と言われています。いらっしゃったことは?」

「ないと思います」

旅の多いわたしだが、演奏を終えると慌ただしく帰京するので、観光地に疎い。

「雪ちゃんはクラシックのピアニストなんだよ」

妙なタイミングで父が切り出した。大介のおおきな目が光ったような気がした。

「へえ、そうなんすか」

確かにわたしはピアニストだ。けれどピアニストと紹介されるのが苦手だ。

ステージの中央で聴衆の視線を一身に集める華々しきソリストを想像する人が多い。反対に趣味の延長でやっているだけのように思われる場合もある。

どちらも困る。伴奏者をイメージしてもらうのはなかなか難しい。

自分で言うのもなんだが、伴奏は相当な技術がないと務まらない仕事だ。ソリストの妨げになることなど許されない。もちろん目立ちすぎてもいけない。プロとしての役目を果たしつつ、過度な印象は残さないように。

「楽譜読めるんやね」

と、大介は意外な反応を示す。

当然だ。まずは「譜読み」といって、楽譜を徹底的に読み込み、頭と指を一体化させる作業を行う。

黙って頷くと、「楽譜なしでも弾けますか?」と聞いてきた。

「暗譜している曲なら」

「楽譜がない曲だったら?」

「楽譜がない曲、ですか」

曲に楽譜がないなんて、考えたこともなかった。すると、大介は言った。

「出ません?明日」

今度は父が目を輝かせた。

「やるか?」

「まさか。わたし、即興とかやったことないよ」

「やったことないからいいんじゃないか」

父が無茶を言う。むかっとする。母の気持ちが少しわかってしまう。

視線の端で、マツバ氏が携帯を耳にあてる。どこかに電話をかけるようだ。

「ああどうも。マツバです。すみません遅くに。明日なんですが、ピアノ1台用意できませんか?アップライトで結構です」

ちょっと、何を言っているの?見た目はまともなのに、この人もやっぱり無茶だ。

「そうですか。ありがとうございます」

電話を終えて「オーケーです」

何もオーケーじゃない。

「選曲は雪さんに任せますよ。俺がんばってついていきますから」

「おお、いいねえ」

男たちは楽しそうにしている。

いま現在、こうして深い緑に覆われているのだから、何百年、何千年も前から山だったのだろう。

父のアトリエのある滋賀から京都を目指している。前にマツバ氏が言っていた「大原を越える山道」か。朝から気持ちよく晴れているが、木々に遮られ、路面まで光は届かない。

父はマツバ氏の白いアウディに乗って出かけた。わたしは宇田川大介の古いバンに乗っている。登り坂では、部品が飛びそうなほどの音を立てた。

そのうえ大介は口を開くたびに、ハンドルから手を放すので気が気でない。

「まさかこんなことになるとは。雪さんも結構アナーキーやね」

「わたしはやるなんて言ってません。まだやるとも決めていません」

これまでの人生、概ねスケジュール帳にのっとってきた。昨日の今日でライブに出るなんて、そんな予定を書き込んだ試しはない。

「けど、センセイは喜んでるでしょ。雪ちゃんと一緒で」

大介は「ちゃん」に力を込めて言った。いじられている。

「かっこいいお父さんですよね。俺母子家庭なんで、ああいう親父がいたらよかったなあって」

あの父がいたはずなのに、わたしだって実質母子家庭で育った。

ハンドルを握る細い指が、小気味よくリズムを刻んでいる。ドラマーになる、と息子が言い出したとき、彼の母親は止めなかったのだろうか。仲の良い母と息子の姿が頭に浮かんだ。

なんでも話せる関係。反発も和解も真正面から。わたしには決して手に入れられなかったもの。言いがかりもいいところだけど、彼に少し腹が立つ。

終始くねくねした道を進み、いくつかの川を越え、車は京都市内に達した。

 

「くろだに」は全容が掴めないほどに広大だった。いくつもの大寺小寺が集まり、まるで一つの町のようだった。

伽藍の前に特設のステージが組まれていた。若者に人気のバンドからベテランミュージシャンまで、総勢7組のアーティストがアコースティック編成で出演するらしかった。チケットは早々に完売したそうだ。

そんな場に飛び入り参加なんて本当に許されるのか。わたしのことなど、誰も知らない。

若干調律の甘いピアノに触れるだけは触れ、形だけのリハーサルを終えた。大介はわたしに向かって親指を立ててみせた。父はもちろんリハーサルには現れない。

15時から始まったライブは、寺域の雰囲気も相まって、静けさと熱が同居する独特の盛り上がりを見せた。

そして夕闇が辺りを包む頃、揃いのつなぎ姿の父と大介がステージに登場した。ライトに照らし出されたふたりに、若い観客からも大きな歓声が上がる。

ステージ中央には一辺2メートルほどの正方形のカンバスが3枚。その左にはドラムセット。右にはしっかりとアップライトピアノが用意されていた。

父は筆を、大介はスティックをそれぞれ手にし、目配せを交わす。

乾いたドラムが一発鳴り響き、そこから先は音が沸騰するように連なった。大介は、悪戯好きの子どもみたいな目のまま、自らの繰り出すグルーヴに身を委ねていた。他の楽器に比べて圧倒的に限られた音階なのに、紛れもなく音楽そのものだった。

それに対峙する父。

足でリズムを刻み、カンバスの間を行き来しながら、3枚同時に太い筆を走らせる。赤を置いたかと思えば、次の瞬間、迷いなく青で塗りつぶす。オレンジ、緑、ピンク。音と共鳴するようにカンバスは刻々と表情を変える。それは太陽のようでもあり、全てを見通す目のようでもあり、幸せな鳥のようでもあった。

絵を描く人と太鼓を叩く人。どちらも、大昔からずっと人の心を惹きつけてきた種族なのだと思った。

時を忘れて見入っていると、突然「雪!」と父が大声で吠えた。大介も「ユキちゃーん!」と叫んでいる。

心臓が冗談みたいに高鳴る。わたしとて20年近くプロのピアニストをやってきた。それなのに、味わったことのない緊張が走る。

隣のマツバ氏が意外な力強さで背中を押す。腹をくくるしかない。

何を弾くか。頭に閃いたのはラヴェル作曲の「ラ・ヴァルス」だった。

 

音大生だった二十歳の頃、わたしはチャンスを掴みかけた。数百人がエントリーする全国コンクール。3人まで絞られた最終審査に残ったのだ。課題曲を無難に終え、あとは自由曲。

本当は「ラ・ヴァルス」を弾きたかった。作曲家ラヴェルが、精神に不調をきたしながらも必死に紡いだ異端のワルツ。

美しさと狂気がせめぎ合う旋律に、わたしは魅せられていた。

しかし、母がそれを許さなかった。

「その曲は受けないわよ。『革命』でいきなさい」

革命のエチュード。ショパンの最も有名な曲のひとつであり、また技術を示すには格好の題材でもある。

結果、わたしは2位。1位の奏者も同じく「革命」を選んでいた。

 

あれから20年以上経った。状況は何もかも違うが、「ラ・ヴァルス」を弾く機会がここに巡ってきた。

父も大介も、そして聴衆も動きを止め、わたしを待っている。

震えそうな左手を鍵盤に置いた。音を出す。指は覚えていた。

不穏な闇夜を思わせる序奏の低音から一転、まばゆい光がほとばしる転調。いける。ここ何十年味わっていなかったピアノの喜びがあった。わたしの指が喜んでいた。

その後も曲は次々と表情を変える。大介がそれに寄り添う。クラシックピアノとドラム。想像もつかなかった組み合わせが、感覚をダイレクトに刺激する。

絢爛豪華な旋律と、それを挑発するかのような半音階。12分に渡るめくるめく狂熱のワルツ。最後の4連符を叩いて、わたしは幕を下ろした。

椅子からしばらく立てないでいた。こんなこと、普通はない。拍手と歓声が渦巻いていた。わたしへの称賛も交じっているのだろうか。

演奏中、父を見る余裕はなかった。満面の笑みを浮かべ、父は大介とわたしに拍手を送っている。

全身絵の具まみれの父の背後には、鮮烈な色彩をまとった花が3輪、咲き誇っていた。

 

わたしは久しぶりに、本当に久しぶりに、母の影を振り切れた気がしていた。

この時点では確かにそう思えたのだった。

文/大澤慎吾