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COLUMN

2019.08.13

母は言う「なんであんな人と結婚したの」。人には言えないほど、わたしは母が嫌いだ。(第6話)

若々しく澄み切ったヴァイオリンの音が、まだ新しいホールを満たした。

アンコールはモーツァルトのソナタ。リサイタルは無事幕を閉じた。感極まった表情で聴衆の拍手に応えるナパット君の横顔を眺めながら、わたしはそっと肩の力を抜いた。なんとかやり終えた、というのが率直なところだ。

ナパット君は、わたしが非常勤講師として籍を置く音大の留学生だった。新進ヴァイオリニストの彼が、今回故郷のタイで凱旋公演をするというので、ピアノ伴奏を買って出た。

別れた夫が亡くなったと聞いたのは、バンコクのホテルの一室だった。リハーサルに向かう直前に電話が鳴った。

久しぶりに聞く元義母の声は、細く、時折途切れた。

元夫はランニング中に倒れ、そのまま逝ったとのことだった。告別式は既に済ませました、と。

「雪さんにはお伝えしないといけないと思ったのですけれど、電話番号がなかなか見つからなくて…」

いいえ、大変な時にすみません、おかあさんもお身体にお気をつけください、かける言葉はこれでいいのか確信が持てないまま、電話は切れた。

 

演奏会の後、打ち上げがあった。会話は主に英語で交わされたが、盛り上がるにつれ飛び出すタイ語をナパット君が親切に訳してくれる。申し訳ないがほとんど上の空だった。

 

部屋に戻ってひとりになる。窓からはチャオプラヤー川が見えた。夜更けでも、明かりを灯した大小の船が多く行き交っている。

別れて10年近く、彼は45歳になったところか。いくらなんでも早い。わたしと一緒だった頃には、特別体の不調は聞いたことがなかった。小さな出版社勤め、お酒が好き、チョコレートも好き。名前を仁という。

離婚後にわたしの演奏を見に来てくれたこともあった。よかったよ、と短いメールがきた。直接会うことはなかった。もう二度と会えないのか。人って、突然いなくなるんだな。

 

兄の友人だった仁を、わたしの母は最初から気に入らなかった。

何を考えてるかわからない。時刻表作る仕事なんてどこが面白いの。悪い人ではないんだろうけど、つまらない。

結婚した後も変わらなかった。

なんであんな人と結婚したの。あなたは昔からそう。ママがやりなさいと言ったことの反対ばっかりする。ママに恨みでもあるの。あなたのピアノが伸びなかったのも、その性格と、この結婚のせいよ。凡庸な人と交わったら駄目にもなるわよ。あなたはもう伴奏しかできない。

 

わたしは人には言えないほど、母が嫌いだ。

 

ピアノは3歳で始めた。わたしがやりたいと言い出したらしい。記憶にあるのは、うまく弾けた時の母の喜びようだ。その顔見たさにわたしは難しい曲に取り組んだ。反対に、うまくできなかった時の母の表情もまた、忘れることができない。

 

わたしが中学生になる頃、父が家に帰ってこなくなった。1年が過ぎ、2年が過ぎても、母は決して離婚しようとしなかった。お金に執着のない父は、得た収入のほとんどを母に渡していたので、金銭的な苦労はせずに済んだ。

年に数度、父はふらりとわたしたちが暮らす麻布の家に立ち寄った。「帰る」というよりは「立ち寄る」という表現がふさわしかった。大きなよく通る声で話し、子供たちの近況に頷き、じゃあまたと言って去った。

 

父はイラストレーターだ。世間では、いわゆる「成功した」うちのひとりだろう。旺盛に仕事をした。

美術の専門教育は受けていない。父は中学を出ると同時に故郷を捨てた。肉体労働や船員、キャバレーの用心棒などをして食いつないだ。新宿の飲み屋で作家や演劇関係者と知り合ったのをきっかけに、挿絵やポスターの仕事を手掛けるようになる。セオリーにとらわれないタッチや色遣いは評判を呼び、一躍売れっ子の仲間入りを果たした。

若い頃はテレビにもよく出ていた。今でいうマルチタレントの走りのような存在。収入も多かった。母との前に2度結婚している。

そして80歳の今も、一線で活躍している。

 

長きにわたる父の不在。まだ若かった母は、四六時中父の悪口を言っていた。付き合わされるのは決まってわたしだ。男の兄には聞かせられない。妹はまだ幼く、理解できない。

あんな悪い男はいない。絵が上手いだけのゴロツキ。思いやりのかけらもない。自分しか見えないのよ。ママの人生むちゃくちゃにされた。ほんとに無責任。

 

それなのに、父の短い帰還時には日頃の態度はおくびにも出さず、どこかに暮らすであろう父の今の相手に、妻の余裕を見せつけるかのように優雅に振る舞うのだった。常よりも心なしか化粧も念入りだった。

思春期の頃は、そんな母が腹立たしく、またかわいそうにも思えた。なんで父に強く言ってやらないのか。何をしおらしくしているのか。なぜ別れないのか。

 

もう少し大人になると、母の気持ちが多少はわかってきた。何者にもなれなかった女の気持ちが。有名イラストレーターの妻、3人の子の母親。それを奪われたら彼女には何が残るというのか。それとも愛していたのか。

 

明け方近くまで寝付けないまま、朝を迎えた。食欲はなかったが、コーヒーだけでもと、ホテルのレストランに向かった。

バンコクは雨季と聞いていたが、十分に観光客が多い。向かいの席に、旅行者家族がいて賑やかだ。言葉からイタリア人だとわかる。祖父母、その息子たち、そして大勢の孫たち。赤ちゃんが2人もいる。大人たちはありったけの笑顔で小さな子らを見守っている。

少し胸が苦しくなった。

短い旅を終え帰国すると、すぐに日常に引き戻された。日本では、小規模なものを含めると、毎日どこかしらで必ずクラシックコンサートが開かれている。わたしにも今のところコンスタントに声が掛かる。その合間を縫って、コンクールが近い学生たちにレッスンをつける。

 

そんな中、しばらくぶりに母から電話があった。

移動のタクシーの車内。出たくはないが、出ないとあとあと厄介だ。

「パパに癌が見つかったの。雪、あなた病院行ける?」

もしもし、も無く、母はそう切り出した。なぜか淡々としている。

「えっ、いきなりそんな。癌って、大丈夫なの?」

「とにかく病院の名前を言うわね。メモできる?」

母から伝えられたのは、京都の大学病院だった。父は10年余り前から、琵琶湖のほとりに住居兼アトリエを構えている。

明日のレッスンはなんとかスライドできそうだ。

「ママは行かないの?」一応聞いてみた。

「行くわよ。雪は先に行っておいて」と母は答えた。

翌朝早く、私は京都に向かう新幹線に乗った。

文/大澤慎吾 写真/塚田亮平