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COLUMN

2019.10.07

お父さんは笑っているのに、声はどこか怖い感じがした。お母さんの顔がさっと白くなった。(第14話)

鹿児島先生が男の人と腕を組んで歩いていたらしい。そんな話がクラスに広がっていた。私は早希ちゃんから聞いた。

私はそういう話に興味がないから、適当に返事しておいた。早希ちゃんは物足りなさそうな顔をしていた。

早希ちゃんは明るくて楽しいけれど、噂好きなところがある。

鹿児島先生はいつも通り、大きな声で授業をした。カッコを使った長い式を黒板に書いた。

(2+3)×(4−2)+5

「ちょっと難しいですよ。計算の順番に気をつけてくださいね」

佳音ちゃんはまだぼんやりしている。ボンが死んだショックからまだ立ち直れないみたいだ。

私は私でややこしい問題にぶつかっている。でも誰にも相談できない。

遼太郎くんは誰よりも早く「できましたー」と得意げだ。男子はたいてい悩みがなさそうで羨ましい。

 

お母さんは「ただいま」と言って普通に帰ってきた。出張の帰りにはいつもお土産を買ってきてくれるのに、今回は無かった。

お父さんは、この「出張」の後、妙に機嫌がいい。私にもお母さんにも優しく話しかけてくれる。なんか怪しいけど、嬉しくないわけじゃない。何もかも私の勘違いかもしれない。

 

土曜日、家族3人揃った。

「ユウちゃん、ウタちゃん、天気もいいし、どこか行こう」とお父さんが言う。

「じゃあ久しぶりに『あてのない旅』に出てみる?」

休みの日は倒れたように眠るお母さんも元気だ。

あてのない旅、というのは私が低学年の頃までは、よく3人でやっていた遊びだ。

ルールは三つ。

・電車に乗って、どこかの駅で適当におりる。

・ひとりでもどこかのお店に入りたい人がいたら、必ず入る。

・別れ道で迷ったら、地面にネジを投げる。そしてネジの先が向いた方に歩く。

そのほかはびっくりするくらい何も決めない。

お母さんは買い物が好きだ。洋服屋さんはもちろん、帽子屋さん、家具屋さん、雑貨屋さんなど、いろんなお店に片っ端から入る。ひっそりとした古い八百屋さんや肉屋さんなんかも見逃さない。あっという間に買い物袋が増える。

お父さんは本屋さんとか文房具屋さんとかスニーカー屋さんとかに入る。でも買うことはあまりない。お母さんの荷物を持ってあげる。

私はふたりが入りたいお店を見るのが好きだった。そこには綺麗なものがたくさんあった。うっとりしていると、時間があっという間に過ぎた。

私がだんだん大きくなり、休みの日は友達と遊ぶことが増えてきたので、あてのない旅には、あまり出なくなっていた。

「お父さんネジ持った?」「持ったよ」

涼しい風が吹いていて気持ちよかった。空が高い、という表現をこの前の国語の時間に教わった。きっとこんな空のことを言うのだろう。

外が見たいから地下鉄じゃない方がいいね。みんな同じ気分だった。

私たちの家からJRの駅に出るには、結構歩かなければならない。でもそれが今日はちょっと嬉しい。お母さんと少しだけ手を繋いだ。なつかしい感触だった。

お母さんは鮮やかな紫色の上着に、ベージュのズボンを穿いている。今日もカッコいい。すれ違う人がみんなお母さんをチラリと見るのがわかる。

 

クラスでの出来事、流行っている遊び、ボンが死んでしまったこと、いろいろ話しながら歩いた。

お母さんも、旅先で食べたご飯の話や、出会った人、拾った石の話をしてくれた。お母さんは買い物だけじゃなくて、石ころや木切れを拾うのも好きだ。と言っても、別に価値がありそうな石ではない。スピリチュアルっぽくもない。

「丸くて、まっすぐに線が入っていて、あれはいい石ね」

お母さんはそう言うけど、私から見ればただの石だ。

私は密かに思っている。お母さんが、ちょっと頼りないお父さんと結婚したのは、石ころ拾いなんかが好きな性格だからではないか。

 

恵比寿駅に着いた私たちは、どっち回りの山手線に乗るかをネジに聞いた。

ホームの真ん中で大きめのネジを放るお父さんを、周りの人は不思議そうに眺めた。

「うーん、これは外回りだな」

つまり渋谷・新宿方面行きらしい。どっち方面でも、3人一緒なら楽しい。

 

渋谷は隣なのですぐ着く。大勢の人がおりたので、3人並んで座れた。

次の原宿は窓の外にお店がたくさん見える。お母さんと顔を見合わせる。どうする?おりる?声を出さずに会話をする。

お父さんを見ると、まだ早い、という顔をしている。口には出さないけれど、お父さんは原宿を避けたいのだ。この辺りはお店が多すぎるから、入り始めたらキリがない。

でも、聞いたこともない駅でおりたら意外と楽しかったりする。だからここはお父さんに従おう。

新宿も素通りしてしばらく行くと、表示板に「目白」という文字が現れた。右隣に座っているお父さんが突然「おりよう」と言うので、慌てて席を立つ。

目白駅は改札口がひとつしかない小さな駅だった。駅の中の空いたスペースで、男の人がカバンを並べて売っていた。立て札には「800円〜」と書いてある。これにはお母さんも立ち止まらない。

 

駅前の広場でお父さんがポケットからネジを取り出した。今度は私がやらせてもらった。左を指した。

左に歩き始めて10歩目ほどで「ここ入っていい?」とお父さんが言い出した。珍しいパターンだ。

地下のお店だった。階段をおりると、信じられないくらいたくさんの瓶が目に飛び込んできた。いくつもの棚に、天井までびっしりとお酒が並んでいた。

酒屋さんか。私は興味がないけど、ルールだから仕方ない。

でもよく見ると、100年前にできたワインなんかを売っていて、案外面白かった。

お父さんはワインを1本買った。去年できたやつだった。

外に出て、今度は反対方向に歩くことにした。大学の立派な門が見えた。その横を通るまっすぐな道を進んだ。

どうしたことか、お店が全く見当たらない。大学のほかには、消防署や警察署があるばかり。ランニングをしている人が多い。すれ違うたびに、お父さんが反応しているのがわかる。走りたいのだろう。

 

このまま何もないのかと不安になった頃、「鬼子母神」という看板が見えた。なんか怖い名前だ。お父さんに聞くと、有名なお寺らしい。

お寺に続く道沿いに建つ一軒の家に、お母さんがいきなり入っていったのでびっくりした。でもよく見るとアクセサリーのお店だった。とっても小さな表札が出ていた。

「さすが。見逃さないね」とお父さんと私は言い合う。

職人さんがその場でアクセサリーを作っていた。お母さんは気軽にあれこれ話しかける。私は少し人見知りだ。お父さんに似てしまった。

お寺をお参りしたあと、近くのカフェに入った。7、8人も入ると満員になるような小さなお店だった。お母さんのコーヒーを一口だけ飲ませてもらう。私はカフェに入るといつもそうする。今のところ、おいしいと思えたことはない。いつかおいしくなる瞬間を待っている。

ちっちゃな電車がお店の前を走って行くのが見えた。1両しかない。まるでおもちゃみたいだ。お父さんに聞くと、都電荒川線というものらしい。「乗りたい」とふたりを誘って外へ出た。

 

駅員さんがいない駅で電車を待った。私たちのほかには、おばあさんのグループが何組もいた。みんな楽しそうに笑い合っていた。お母さんも何十年後かにはあんな風になるのかな?多分お母さんはおばあさんになってもカッコいいだろう。

ゴトゴトとやって来たかわいい電車に乗り込んだ。駅を出るとすぐ、急な下り坂だった。遊園地の子供用ローラーコースターみたいで、ちょっとドキドキした。

しばらく行くと早稲田という駅に着いた。終点だった。線路がそれ以上なかった。夕焼けが綺麗に見えた。

今回の「あてのない旅」は買い物大会ではなかったけど、こういうのも私は好きだなと思った。

お父さんとお母さんも楽しそうだった。

ここのところ、胸に詰まったあれこれを全部忘れてしまえそうだった。

 

「丸山に会いに行こうか。近くまできたから」

小さな駅を出たところで、お父さんが言った。

顔は笑っているのに、声はどこか怖い感じがした。

お母さんの顔がさっと白くなった気がした。

丸山くんというのは、お父さんの友達で、もちろん大人だ。私が「くん」付けで呼ぶのはおかしいけど、小さな頃から何度も会っているし、お母さんも「丸山くん」と呼ぶので、自然とそうなってしまった。お父さんとは対照的に坊主頭だ。ハンサムでいつでも優しい。

私たち家族が、丸山くんに会いに行くのは全然変なことじゃないのに、どうしてこんなに嫌な予感がするのだろう。

家に帰りたい。帰ろうよ。

お母さんは返事をしない。

夕焼けに照らされながら、私たちは動けずにいた。

文/大澤慎吾