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COLUMN

2019.09.30

朝、お母さんは家に帰っていなかった。次の朝も、お母さんは帰ってこなかった。(第13話)

「詩子ちゃんのパパって優しそうね」と、よく言われる。

見た目が怖そうなのに、話すと意外と穏やかだから、よその人にはそう思えるのかもしれない。

 

でもお父さんはよく怒る。

私が宿題をやらずにゲームをしていると怒る。

箸置きを使わずに、お皿にお箸を置くと怒る。

毎朝届く小学生新聞を、夜になっても読まずにいると怒る。

グミを食べ過ぎると怒る。

怒鳴ったりはしないけど、細かいことをいちいち注意される。いつも家にいるから、結構きつい。

このところ私は憂鬱だった。佳音ちゃんとの合同誕生会のことを考えるせいだ。

しかし、ある日それどころではなくなってしまった。

佳音ちゃん家のボンが死んだのだ。ボンはトイプードルの男の子。お家に遊びに行くと、時々私も散歩させてもらったから、よく知っている。小さくて茶色くてフワフワだった。

佳音ちゃんはボンをとても可愛がっていた。朝の会で「ひとことスピーチ」の順番が回ってくると、ボンの様子をいつも嬉しそうに話していた。

佳音ちゃんの落ち込み方は、見ていて可哀想になるくらいだった。学校に来るには来るけど、心が空っぽになったみたいで話しかけても返事がなかった。誕生会の相談なんてとてもできそうにない。

 

「喪に服すってやつだな」

夕ご飯の時にボンのことを話すと、お父さんはそう言った。

お母さんは、今日も遅くまで仕事でまだ帰ってこない。

「大切な存在がいなくなったのに、お祝いをするわけにはいかないよね」

そう言われて、なぜかほっとした。佳音ちゃんと一緒に誕生会をしなくても済みそうだからだ。

どうやら私はボンが死んでよかったと思っているらしい。

そんなひどいことを考えてはいけないと、頭ではわかっているのに止められなかった。

「私だけで誕生会やったらダメかな」

恐る恐る聞いてみると、お父さんは少し難しい顔になった。

「うーん、どうだろう。佳音ちゃんはどう思うかな」

やっぱりだ。

お父さんならそう言うかもしれない、と予想はしていた。

でも実際に聞くとがっかりした。

私の誕生日なのに、どうして佳音ちゃんに気を遣わなければいけないのか。

ボンはうちの飼い犬じゃないのに、どうして私まで「喪に服す」というのをやらなければいけないのか。

目の前には筑前煮がある。筑前煮が好きなんて渋いよなあ、と自分が作っておきながら、いつもお父さんは不思議そうに言う。

お父さんの筑前煮は絶品だけど、急に食欲がなくなった。

お箸を置いてあたりを眺める。何度見てもやっぱり古ぼけた部屋だ。佳音ちゃんの家みたいに広くもない。あんまり大勢の人は呼べないだろう。誰を呼んで誰を呼ばないか、これは問題だ。

「お箸は箸置きに置きなさい」と、お父さんが言う。

私はむかっとする。

そんなこと、どうでもいいじゃない。

私は誕生会の話をしているの。なんでお箸が気になるの。

お父さんはきっと面倒くさいのだ。

ケーキを用意したり、飾り付けをしたり、ハッピーバースデーを歌ったり、大抵はお母さんがやることを、自分がやらなければいけないから。

だったら他のお父さんみたいに、外に働きに行けばいいのに。

そうすればお母さんが家にいて、たくさんおしゃべりできて、一緒に遊べて、お出かけもできて、私は楽しいのに。

食事を残すと、お父さんは怒る。だから私はむりやり口に筑前煮を詰め込む。ごちそうさまを言って、自分の部屋に行った。

 

ベッドにはたくさんのぬいぐるみが寝ている。どれもお母さんが出張先で買って来てくれたものだ。中でもフランスから来た大きな犬のぬいぐるみを、私は気に入っている。ボンと違って死なない。

私が話しかけると、いつも答えてくれる。私が落ち込んでいると、励ましてくれる。私にしか聞こえない声で。

いつか、私が大人になったら、この声は聞こえなくなるのだろうか。抱きかかえながら、私は眠ってしまった。

 

翌朝、歯磨きもせずに眠ってしまったことを後悔した。またお父さんにチクリと言われるだろう。

でも、お父さんは意外に何も言わなかった。長い髪を後ろで結んでいるのはいつも通りだけど、なんとなくくたびれた様子だった。「おはよう」の声も低い。

「お父さん、寝てないの?」と聞くと、

「うん。あんまりね」と答えた。

 

お父さんはポスターなどのデザインの仕事をしている。昔はそういう会社に勤めていたらしいけど、私が生まれてから家で仕事をするようになった。

私が見るお父さんは、朝ご飯を作ったり、洗濯をしたり、夕ご飯を作ったりで、あまり仕事をしている人の印象はない。

でも「締め切り」が近いと徹夜みたいになるときもあるらしい。昨日もそうだったのかな。

お母さんは、私より遅く起きることは珍しくない。その日も、朝ご飯はお父さんと二人だった。

「お母さん、昨日も遅かったの?」と聞くと、お父さんはコーヒーを飲む手を止めて、

「うん。そうだね」とだけ言った。

本当は、その朝お母さんは家に帰っていなかった。

その次の朝も、お母さんは帰ってこなかった。さすがに私だって気づく。お父さんに訳を聞くと「急な出張だよ」と言う。前の日と打って変わって妙にニコニコして「夜はどこか外に食べに行こうか」と優しい。朝から夕ご飯の話をするなんて、何か変だ。胸の奥のあたりが、重い感じがした。

「蕎麦屋でも、中華でも。あっ、この前行ったピザ屋さんでもいいよ」

私は天セイロもラーメンもピザも、どれも食べたいと思わなかった。

頭の中にあの文面が浮かんだら、それどころじゃなくなったのだ。

 

「優子さん、僕は覚悟を決めています」

 

1ヶ月くらい前だった。私はお母さんのスマホを借りて、パズルゲームをしていた。

64番目のステージがとても難しくて、なかなかクリアできない。その夜も、寝る前に何度もチャレンジした。

でも最後のピースがどうしても揃わない。もう諦めようかと思ったとき、ピコーンと音がして、ラインのメッセージが入った。パズル画面の隅に小さく表示された。

そんなのはよくあることで、私もお母さんも別に気にしていない。大抵「おつかれさまです」みたいな書き出しのが多い。スマホを返すときに「なんか来てたよ」って言えばいい。

でもそのときにチラリと見えた文は、いつもと様子が違った。

「優子さん、僕は覚悟を決めています」

詳しいことはわからないけど、まずいものを見た気がした。

それからお母さんのスマホを借りる気がしなくなった。「覚悟の人」からまたメッセージが届いたら嫌だからだ。

今回の「急な出張」に、あのメッセージが関係している。

なぜかそう思った。

 

「タイ料理もいいね。カオマンガイ」とか言っているお父さんを無視して、靴を履いた。

「行ってきまーす」と外に出る。いつの間にか半袖じゃ寒いくらいになっている。

学校ってどんなときでも行かなきゃいけないのかな。そんなことを思ったのは、その朝が初めてだった。

文/大澤慎吾 写真/塚田亮平