佳織という名の女が、遠くから自分に気づくやいなや、驚いたように立ち止まったのを見て、どうせバイトの三浦が余計なことまで喋ったのだろう、と佐々木森は思う。
近づいていいものか、幾らかためらっている様子ながら、佳織はゆっくりと距離を詰め始めた。
客が森のコーヒーを買ってくれる理由に、自分への興味が含まれていると感じることは珍しくない。この歳にもなると、味だけで選んでくれ、などと意地を張る気はさらさらないので、大抵はありがたく受け流す。しかし、彼女はなぜか心に引っかかるのだった。世間が振り返るような美人と付き合ったこともあるにはある。でも、それがどうした。
森は手元に視線を落とし、気づかない振りをした。佳織に先に喋らせたいと思った。
「こんにちは」
「ああ、どうも」
「お元気なんですか?」と佳織は少し不安げに尋ねた。相手が元気であることを前提とする呼びかけではなかった。
「ええ、この通り元気です。バッチリです」
と、森は明るく振舞ってはいるが、この2週間はとても愉快なものとは言い難かった。
コーヒーが出来上がるまで、いつになく言葉少なだった佳織が「森さん…」と呼びかけた。しかし、後に続く言葉がない。
森は、ふと店の外に出た。そして、2メートルばかりの間隔をあけて、佳織の前に立った。
「何か引っかかるなあと思っていたんですが、やっとわかりました。僕ら、お互いの顔を半分しか知らないんですよね」
森はそう言うと、つけていたマスクを外した。梅雨の合間の晴れだった。マスクを外したはずなのに、なぜか眩しく感じたのが妙だった。
佳織は、不意をつかれたようだった。胸の前でコーヒーを持ち、立っていた。
「なんでだろう、私、すごく心配で…。もう、会えないかと思いました。あんまりそんな風に思うタイプじゃないんですけど…」
絞り出すようにそう言ったあと、なぜか怒ったような口調になった。
「しかも、何なんですか。私が心配してノコノコ現れるだろう、みたいなの。そんなこと人に言いますか、普通」
確かに、言われてみればそうだ。なんで俺はそんなことを言ったのだろう。でも考えるまでもなかった。
「佳織さんに、また会いたかったから」声に出してみるとあっけなかった。自分が馬鹿みたいに素直になっているのが、いっそ爽快だった。
「なんか、どうなるかわからないじゃないですか。政治も、経済も、何もかも。僕の店なんて、何かあれば一発ですよ」
「私の会社だってお先真っ暗ですよ。ていうか政治経済と私と、何の関係があるんですか」
「いや、なんと言うか、要するにあれですよ、会いたい人に会おうと思うなら、いままでより気合いを入れないといけないってことですよ。覚悟決めなきゃ会えないってことですよ」
「私に会いたいの?」
「会いたいよ」
森がそう言うと、佳織はするりとマスクを外した。森は佳織の顔をじっと見つめた。
「…見過ぎじゃない?」
「あ、ごめん」
「森さんって、ちょっと馬鹿なの?」
「うん、どうだろう、そうだね、馬鹿だね」
2週間前、目元と口元に血をにじませた見知らぬ若者が、突然森のマンションを訪ねてきた。夜中の2時。若者は、十代にすら見えるあどけなさだった。
「内勤の武井さんに教えてもらって…」と言った彼は、とりあえず追い返される気配のないことに安心したようだった。内勤、つまりはホストクラブの黒服のことである。武井と森とは長年の腐れ縁のようなものだ。
若者はよれたTシャツにジャージー姿だった。気の抜けた服装だが、髪型のボリュームと妙に綺麗な爪は、ホストのそれに違いなかった。水かコーヒーかどちらがいいか訊くと「牛乳」と答えるので、森はグラスに注いで出してやった。捨て猫を拾ったみたいな気がした。
「顔、大丈夫か?」と尋ねると、
「見た目、やばいことになってますか?」と震えそうなわりには、外見を気にする余裕があるので「いや、男前だよ」と告げた。
所在無げに突っ立っている若者に「風呂、使っていいよ」と促した。
「ありがとうございます。…身長、同じくらいっすよね。できたら着替え、貸してもらえませんか?」
弱気なのか強気なのかわからない若者がシャワーを浴びている間に、武井に電話を掛ける。なかなか出ないが、留守電にもならないので、出るまで待った。
やっと応答した武井の奥で、騒がしい声が響いている。
「なんだよ、あの兄ちゃん」と尋ねると、
「あら、本当に来ちゃったかあ」と他人事のようだ。
「どうすればいいんだよ」
「2、3日かくまってもらえよって言っちゃったんだよな。ご都合は?」
「ご都合って…。来ちゃったものは、しょうがねえよ」
森はため息をついた。結局あれほど反発した父親と同じようなことをやっている。
自分が普段着ている服を、他人が身につけているのは変な気分だ。若者は極端に痩せているらしく、バスクシャツはダブダブだった。
「君、『N』にいるのか」
森は、とあるホストクラブの名を挙げた。
「はい。大変なんですよ。いま」
若者はすがるような目をして話し始めた。
「オーナーの追い込みがきつくてこのままじゃ殺されるんじゃないかって、俺怖くて怖くて、気がつけば店から逃げてて、でも寮には帰れないし、親とも縁切れてるから行くとこないし、武井さんならなんか知ってるんじゃないかと思って、そしたらここを教えてもらったんです。ここって東京湾近くないっすよね」
「近いよ」
若者の表情が一瞬でこわばる。
「俺、泳げないんすけど」
「練習するか?」
「区民プールとかっすか?」
若者が真剣に考え始めたのを見て、森は思わず笑った。
翌朝、ソファーに寝ていたはずの若者の姿はなかった。タオルケットは意外にきちんと畳まれていた。
どこに消えたかを探る術も、義理もないが、一応武井には伝えておこうと思った矢先、武井の方から連絡が入った。「検査受けろ、大至急」
森はため息をつきながら、あ、着替え、と思った。あいつ着たまま帰ったな。それどころではないのに、森の頭に浮かんだのは、まだ新しいバスクシャツのことだった。
お互いの顔全体を見せ合ってから数日後、佳織と森は、富士五湖のひとつ、西湖のほとりにいた。平日。佳織は入社以来初めて会社をサボった。どれほどの二日酔いでも、あるいはベッドの上でバターにされたまま朝を迎えても、決してサボらなかったのに。
それがスルスルっとロープを滑り下りるみたいにサボってしまった。もっとも、リモートワーク優先みたいな空気が出来上がりつつあるので、背徳感はあまりない。
「キャンプに行きましょう」という森の誘いは、唐突といえばあまりに唐突だったが、不思議と佳織の腑に落ちた。むしろ、行くならキャンプしかないようにさえ思えた。キャンプなど、学校行事での経験しかないのに。
場内は閑散としていた。鳥だけが鳴いていた。空は鈍色で、富士山は麓すら見えそうもない。関西出身の性か、そこにあるはずの富士山が見えないと、何か大きな損をしたような気になる。しかし、今回ばかりはあまり気にならない。
森の手際は目を見張るものがあった。のっぺらぼうの砂地が、みるみるうちに快適な空間へと変貌した。気づけば佳織は、座り心地のいいローチェアに収まっていた。
キャンプギアは、どれも使い込まれたものばかりだった。タープの陰に大きなリュックサックが見えた。ひときわ年季が入っている。いま主流の縦に長い形ではなく、おにぎり型とでもいうのか、横に広い。フラップにデカデカと字が書かれている。「1年3組 ささきもり」とある。
「これ、森さんの字?」
「うん。そうだね」
「これで学校行ってたの?」
「まさか。こんな大きいの持てないよ。親父のキャンプ道具だったんだけど、なんか気に入ったんだろうね。自分のものにしたくて名前を書いた。なぜかクラスまで。親父は怒らなかった。それどころか何も言わずにずーっと使い続けた。高学年くらいになると、こんな間抜けリュックを普通に使える神経にだんだん腹が立ってきた。俺が書いておいてひどい話だけどね」
森は歌舞伎町生まれだ。
70年近く前、森の祖父が、開業間もない西武新宿駅近くに喫茶店を出した。その跡を父が引き継いだ頃には、現在の歌舞伎町の原型は概ね出来上がっていた。界隈でアルコールを出さない店は珍しく、酒が苦手なホステス(意外と多い)などにひいきにされた。
日曜と月曜が定休だったので、父は一人息子の森を連れて、毎週のようにキャンプに出かけた。小学校での森は、決まって月曜に体調を崩す子、ということになっていた。
4年生の春、森の母が男と逃げた。その週も父子は海辺でキャンプをした。父は森に、釣ったアジを三枚におろすことを教えた。母の話はしなかった。
6年生の夏、コマ劇の前で森は初めて補導された。新宿署に迎えに来た父は、警官に「歌舞伎町に家があるんだから歌舞伎町を歩くのは当たり前でしょう。それとも地下道でも掘ればいいのかな」と言った。
日暮れ前、雨が落ちてきた。優しかった雨粒は、少しずつ輪郭を増し、湖面を叩くようになった。
佳織と森は、タープに注ぐ雨音を聞きながら、話した。
「お父さん、かっこいいね」
「ちょっとかっこつけすぎだけどね。歌舞伎町生まれの息子に“森”なんて名前つけるんだから」
思春期を迎える頃には、森は次第に父に苛立つようになった。拒むということを知らない父は、頼まれればなんでも引き受けた。近隣の揉め事に引っ張り出され、嫌がらせを受けたことも一度や二度ではない。それでも父は平然と喫茶店を続けた。
森は一通りグレた。そんなときに出会ったのが黒服の武井だ。当時の武井は、成人していると嘘をついてホストをやっていた。森にもホストになるよう、再三誘った。
「お前は最終的に女を憎んでいるところが実にホスト向きなんだよ」と武井は言った。しかし、その表現があまりに的確で、森はホストになるのを諦めたのだった。
雨はさらに勢いを増した。テントというものの内部が、こんなに狭いのだと佳織は初めて知った。
身を寄せ合うほかなかった。地面からの湿度が背中を包んだ。
「好きだよ」と佳織から言った。
「俺も好きだよ」森が応えた。
「どういうところが?」言い終わる前に後悔したが、言ってしまった。
森は少しだけ考えてから、
「普通なところが、好きだ」と言った。
佳織は軽い衝撃を受けていた。私、普通なんだ。消せずにいた緊張が、すっとほどけた気がした。
お互いが身体の向きを変えるたびに、薄い膜の下で草の擦れる音がした。佳織の聞いたことのない音だった。いつまでも聞いていたいと思った。
二人は、長いこと、そうしていた。雨は止まない。
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子