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COLUMN

2020.06.08

「顔を隠すのを許されるのは美人だけだ。そのことを多くの女はわかっていない」(第2話)

これまでの佳織ならば、その日に会った男と次の朝を迎えることとて、さほど珍しいことではなかった。

虚しくならない?と聞いてくる者(付き合いが長いだけで、別に仲良くない先輩)や、どうやったらそうなれるんですか?と聞いてくる者(出会いがないと焦る振りをする後輩)もいるが、どちらも「さあ?」と両手を広げて笑っておけば、それ以上突っつかれることもない。

そういうつもりで「さあ?」と答えている佳織であったが、自問自答したとしても、結果は同じく「さあ?」なのだった。

ともあれ、男女関係が深まる行程をつぶさに解体した場合、この状況下では、いままで通りに運ばないことばかりだった。

ああ、このマスク。できることなら外したい。

顔に自信があるわけではない。その逆だ。佳織は自分を決して美人だとは思わない。だが、そこを早々に認めて生きてきたキャリアこそが、自らの武器であると、佳織は考えていた。

「顔を隠すのを許されるのは美人だけだ。そのことを多くの女はわかっていない」

身も蓋もなく言い換えれば、自らをブスと言えるのは美人だけ、と言うことらしい。

佳織がそんなことを思うのは、幼い頃から「べっぴんさん」と持て囃されてきた姉への反発が色濃い。

誰かが「綺麗やなあ」と言う。中学生くらいまでは恥ずかしそうに首を傾げていた姉は、やがて体全体をくねらせて「そんなことないですぅ」などと言うようになり、大人になってからは、なにを思ったか「妹のほうがモテるんですよ」と吐かすようになった。

事実、モテるのは不思議と佳織のほうだった。姉はそれを気に入らなかったのだろうか。だとすればいい気味だ。

1秒足らずの間で、あれこれ考えている佳織をよそに、素敵な彼が、

「こんにちは。ご注文は?」と、接客を始めた。シャープな見た目に反して、声の印象は優しげだった。35歳の佳織と同年代といったところだろうか。

店名をNothing But Coffeeというぐらいだから、フードメニューは置いていないようだった。食前だったが、やむを得ない。

「ハンドドリップをお願いします」

「はい。少々お時間いただきますね」

たったそれだけのやり取りに心が弾む。この3ヶ月あまり、「やり取り」自体に飢えていたことを思い知る。

「気づかなかったです。こんな素敵なお店ができたの。最近ですか?オープン」

佳織は話を切らさなかった。

「ええ、本当は3月末のはずだったんですけど、今回のことで延期になっちゃって。今月からようやくです」

手元に注ぐ視線を一瞬外し、彼は佳織を見た。

「そうなんだ。大変でしたね。でもオープンおめでとうございます」

「ありがとうございます。お近くなんですか?」

「ええ、職場がすぐそこなんです」

沈黙の気配がした。

「佳織です」

歴戦の勇者は、考えるより先に剣を振るうのだという。佳織は自分がその境地に達しているとまでは思わなかったが、沈黙に覆われるのを本能的に避けたのだった。言った本人が驚いているのだから、言われたほうだって驚いた。

彼は「え?いま名乗った?」という表情をマスクの下に飲み込みつつ、

「森と言います」と思わず返事をした。

「森さん」

名字か…。佳織は、少しばかり落胆した。

すると彼は、

「佐々木森って言うんです。佐々木が名字、森が名前。変でしょ」と続けた。

「あ、名前、なんですね。とっても素敵な名前…」

佳織は素直にそう思った。

「親父が屋久島に憧れてたらしいんですよね。森があるでしょ。縄文杉の。子供ができたら絶対に移住するんだ、って意気込んでいたんだけど、全然移住しなくて。結局ずっと東京を離れずに去年死にました。森はどうなったんだよ。森ビルの森か、って話ですよ」

森は、コーヒーを淹れながら、自分の名前の由来を語った。

佳織は「お父さん面白い。あ、ご愁傷様でした」と笑っていいのかなにやらわからなくなった。

「どういたしまして。どういたしましてってこともないか」と、森は笑った。

10分後、佳織は立ち食い蕎麦屋にいた。

コーヒー片手に入れる飲食店を、とっさに思いつかなかったのだ。昼休みの終わりも近づいていた。

外から店内の様子を窺った佳織は、軽く驚いた。カウンターが、一人分ずつアクリル板で仕切られていたのだ。まるで投票所のようだった。異様ではあったが、なるほど、と感心した。そして冷し山菜蕎麦の食券を買った。

仕切りの中で蕎麦を食べながら、ふと、今後このアクリル板が外されることはないような気がした。立ち食い蕎麦はこういうものだと、当たり前になる日は案外近そうに思えた。それは、心温まる光景とは言い難かった。

しかし、コーヒーの紙コップを見たら、そんなことは忘れた。

森との会話を反芻した。初対面で「ご愁傷様」と告げることになろうとは、思いもよらなかった。森の口調を思い出し、笑いそうになる。アクリル板に自分の顔が鈍く反射している。髪、切らなきゃ、と佳織は思う。心の中に手足があるとするならば、それがようやく目覚めてきたようだった。

 

佳織は1週間で2キロ痩せた。同僚も気づいた。なんにもしてないよ、と佳織は言う。実際なにも変わったことはしていないと、本人も思い込んでいたが、知らず知らずに食べる量が減っていた。代わりに森の淹れるコーヒーを飲むのだった。

「佳織さん、京都なんですね。いいなあ」

出身地の話題が弾んでいる。

「ずっと東京、っていうほうが憧れますよ」

「いやいや、東京にも色々ありますし」

京都にだって色々ある。佳織の出身は京都市ではない。亀岡という隣の市だ。両市の間を保津峡という、それはダイナミックな渓谷が隔てている。佳織は亀岡から京都市内の高校に通った。ものの30分だが、それは深くて長い30分だった。

佳織が大学入学を機に上京した際、最初に住んだのは調布だった。大学に近く、新宿に出るにも便利で、特に不満はなかったが、京都の友達に通じにくいのが難点だった。

調布ってどこ?そこ東京?田園調布の偽物?ひどい言われようだった。

亀岡を揶揄され続けた鬱憤を晴らすためにも、なんとしても23区に住まねばなるまい。そう決意した佳織は、就職して間も無く、晴れて世田谷区民となった。以来23区の西の端、千歳烏山に暮らしている。紀ノ国屋や成城石井はない。あるのはシミズヤという地域密着スーパー。そしていまどき元気な商店街。

以前より早く退勤するようになったものの、飲みに行くわけにもいかないのが辛いところであった。20代の社員たちは、どうやらこっそりと飲み会を催しているようだったが、それを咎める気持ちが道義的なものなのか、無軌道な若さを羨む気持ちなのか、佳織自身、判断つきかねた。

まあ大人には大人のやり方が、などと自分をなだめつつ、シミズヤで鰻の肝焼きその他惣菜と缶ビールを買い、帰宅した。

集合ポストを開けると、封書に混じって、チラシが束をなしている。

「本格中華デリバリー」「水回りのトラブル、いつでも参上」「体験!らくらく痩せ」。

佳織は1枚ずつ、ポスト下に設けられたゴミ箱に捨てる。最後の1枚を捨てるときには「痩せたもーん」と小さく憎まれ口を叩いた。

階段に足をかけながら、封書に目をやる。差出人にまるで心当たりがない。念のため宛先を確かめると、隣の302号室宛だった。誤って配達されたらしい。「野見山ひかる様」との宛名を見るともなく見て、隣室のポストに入れ直したところで、何か引っかかるものを感じた。

「野見山ひかる」

佳織はその名前を知っている気がした。3階まで階段を上がりきると同時に思い出した。

「野見山ひかる」は、高校1年生のときのクラスメートだった。

佳織は、野見山ひかるの顔を知らない。野見山ひかるは、学校に来たことがなかったからだ。

1学年に8組あるその私立高校では、1クラスにひとりくらいは学校をサボりがちな生徒がいた。しかし、そのほとんどは男子生徒であり、ましてや徹頭徹尾登校しない生徒は、野見山ひかる以外にいなかった。実在しないという説すら流れた。3学期になっても彼女は姿を現さなかった。とうとう誰にも顔を見せぬまま、1年生が終了した。

その後、思い出すこともなくなり20年近くが経ったが、佳織の脳裏には、小さく、しかし確かに、その名が焼きついていたようだった。

隣人が越してきて1年の間に、何度か会釈を交わしたことはある。しかしそれ以上の接点はない。確かに年恰好は佳織と同じくらいに見える。下北や高円寺で売っていそうな古着っぽいファッションからは、職業が推し量れない雰囲気が漂っていた。

佳織は部屋に入り、手洗いとうがいを済ませると「野見山ひかる」をネット検索した。

実在しないとさえ言われた彼女の検索結果が、大量に表示された。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子