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COLUMN

2020.06.01

みんなが予想よりも太っていなかった事実に、危機感を覚えた。(第1話)

みんなが予想よりも太っていなかった事実に、危機感を覚えた。(第1話)

東京でも緊急事態宣言が解除された。

朝、千歳烏山の駅まで久しぶりに向かう途中、佳織はふと「緊急」の対義語ってなんだろう、と思った。ネットで調べると「不急」だそうだ。なんとなく腑に落ちない。不急事態とはどういう事態だろう。急がなくていい状況。急がなくていいのなら、ますます会社に行かなくていいような気がしてくる。ややこしいので佳織は考えるのをやめる。

伸びっぱなしの髪がうとましい。行きつけの美容院は営業を続けていたようだったが、表参道まで電車を乗り継ぐのもどうなんだろう、と思っているうち、ずるずると日が経った。だからと言って、ここ千歳烏山で切るという決断も下せなかった。妙な自意識が邪魔をした。

小さな飲食店が立ち並ぶ通りは、まだ眠ったようだ。その間を、佳織と同じように、出勤を再開したような風情の人間がまばらに歩いている。

「つるつるの湯」という看板を掲げる銭湯(正式な屋号は他にあるようだが覚えられない)の前を過ぎ駅前まで来ると、営業休止中だったはずの全国チェーンのカフェが開いていた。客もちらほら入っているようだ。3ヶ月ばかり飲食店から遠ざかると、図らずも自分の輪郭みたいなものが現れてくる。佳織はそんな気がしていた。案外料理を作るのが嫌いではなかったり、案外テイクアウトのコーヒーがなくてもやっていけたりした。このカフェに再び入りたくなる日がくるようには、いまのところ思えなかった。

後ろを歩く人が咳き込む声が聞こえる。思わず青いマスクの針金部分に手をやって、隙間がないか確かめる。青いマスクなんて、以前は医療のプロが着ける色、というイメージだったが、すっかり普通になっている。

佳織は、もともとあまり風邪をひかないし、花粉症でもないので、マスクをつける習慣はなかった。

この春先、世間がざわざわし始めてからも、あまり気にせず過ごしていたら、どこでどうしたってマスクが手に入らなくなっていた。それでもしばらくは「無いもんはしょうがないじゃないか」という態度で街を歩けたが、やがて世の中が「マスクもしないで外を歩くなんてどういうつもりだ」というムードに包まれた。でもみんなどうしてマスクを持っているんだ?と佳織は首をかしげた。

そういえば、と普段開けない収納の奥を探した。2年に1回だったか、健康保険組合かどこかから、風邪薬だの湿布だのの詰め合わせをもらうことがあった。使いもしないが、捨ててもいないだろう。手付かずでどこかに放り込んであるんじゃないか、と思い出したのだ。

まずスーツケースをどかした。すると、暖冬続きですっかり出番のなくなった冬靴の箱が待ち構える。その奥に、3段になったプラスチックの引き出しが見えた。上段にマジックで「クスリ」と書いた紙テープが貼ってある。確かに佳織の筆跡だが、本人にはまるで覚えがない。カタカナでクスリって書くなよ、と何年前だかの自分に思う。

引き出しには、透明のビニール袋に入ったままの薬セットが確かにあった。封を破り中をあらためると、幸いにして7枚入りのマスクが1袋入っていた。カビでも生えていたら逆効果だが、特に問題はなさそうだった。

これで一安心、なのか?1週間たったら、どうするんだ私は。と考えたのも束の間。まあ、1週間後に考えよう。佳織は基本的に面倒くさがりだった。

しかし、うまくいくときはうまくいくものだ。姉の旦那が中国にルートを持っていたらしく、5000枚ものマスクを入手したという。「おすそわけ」というメッセージがあった翌日、佳織のもとにも段ボール箱いっぱいのマスクが送られてきた。数えたら600枚あった。

新宿方面行きの電車は、以前を10とすれば、6から7ほどの混み具合だった。座席は、きれいにひとり分ずつの間隔が空いているが、そこに座ろうとする者はいない。誰が言い出したわけでもなく、自然とそうなっているようだった。佳織は仕方ないので立つことにした。つり革や手すりを持つのがはばかられたので、足に力を入れて踏ん張る。

座れないのはいいとして(運動不足だったし)、それにしても、ニューノーマルっていう言葉は気に障る、と佳織は思った。

もともと「ノーマル」を共有しているのが大前提、っていうのがムカつくのだった。そういえば10年ほど前に流行ったノームコアってのも嫌いだったことを思い出した。

ノーマルってなんだよ。

中肉中背。美人でもないけど不細工でもない。秀才でもないけど落ちこぼれでもない。ファッションフリークでもないけどダサくもない。だからと言って私がノーマルだと思うなよ。

明大前で井の頭線に乗り換える。高架の車窓から見えるのは、家々の屋根だ。てんでばらばらな色合いをして、果てしなく広がっている。改めて考えると途方も無い数だなと思う。この一軒一軒に人間が住んでいる。犬や猫もいるだろう。

佳織の隣に住む女は、犬を飼っている。ぴったり1年前に引っ越してきた。なぜ覚えているかというと、ちょうどその頃、佳織と暮らしていた亮介が、家を出て行ったからだ。

犬を飼えるマンション、と聞くと高級な感じだが、実際は大家が動物好きなだけで、こぢんまりとした集合住宅だ。1フロアに2戸。3階建でエレベーターもない。佳織は3階の西側に住んでいる。間取りは1LDK。

東隣の犬、これがよく吠える小型犬だった。いまどきの東京の犬というのは、骨の髄まで人間にしつけられているものだと佳織は思い込んでいたが、こいつは四六時中吠えていた。彼女が田舎の子供だった頃に見ていた、そこらへんの犬と変わりない。名前も知らない隣人は、よく吠える犬を叱るでもなだめるでもなかった。

1年前に別れた亮介という男は、極端に無口だった。スニーカー屋でバイトしていると言うが、接客なんかできるのか不思議なくらいだった。

付き合いだしてまもなく、亮介は佳織の部屋に住みついた。転がり込む、みたいな威勢のいい感じではなく、滑り込む、とでも言うべき何気なさだった。

背が高くて痩せていた。こけた頬に無精髭。長い髪を後ろで束ね、伏し目がちに歩いていた。そんな姿がかっこよく見えたのに、いざ一緒に住んだらつまらなかった。とにかく会話が続かなかったのだ。

もし自分たちが犬を飼っていたら、もう少し話が弾んだだろうか。そうだったなら、別れずに済んだだろうか。そんな思いが佳織の頭によぎったこともあったが、いや、それだけで保つほど甘くないよな、と打ち消した。

亮介は佳織より8歳若かった。出会った頃の亮介は、まだ20代前半だった。若い男を落としたという達成感はなかった。それよりも、30歳を超えている自分のどこをどう気に入ってもらえたのか、疑念混じりの気持ちが強かった。やがては愛情が勝るはずだと楽観に努めたが、心の段差は埋まるどころか静かに広がっていった。

チェーン店の居酒屋しか知らない亮介を、代々木上原の「笹吟」とか、下高井戸の「おふろ」とか、名店と言われる店に連れて行った(かつて別の男に教わった店だ)。そんなとき亮介は「うまい」と口では言うものの、どこか不機嫌そうなのだった。会計を佳織が済ませると、ますます不機嫌になるのだった。だからと言っていくらか出そうとするでもない。

映画館には数えるほどしか行ったことがないという亮介に、スパイク・ジョーンズやウェス・アンダーソンの映画を見せた。佳織のお気に入りの場面で、亮介は大抵眠そうだった。

それでも2年ほどを一緒に過ごした。

急に夏みたいになった5月下旬、亮介は去った。

「なんか俺、佳織にいろいろ、吸い取られた気がする」と言い残して。

渋谷に着いた。人がそれなりに多い。一時報じられた「人影のない渋谷」の様子はすでになかった。具体的にどうするでもないが、佳織は少し気を引き締める。

宮益坂下の交差点を渡り、明治通りを北に向かう。

オンボロだった宮下公園が、ここ数年の大改造によりSFチックな空間に変貌を遂げた。スケーターとホームレスの憩いの場だったのが、なぜかルイヴィトンも入居する商業施設に生まれ変わった。工事はだいぶ前に終わっており、あとはオープンを待つばかりなのだが、これが当初の予定通りなのか、このたびの不測の事態で遅れているのか、佳織は知らない。

これに限らず、空前の規模で再開発の進む近年の渋谷では、そこら中で大型商業施設ができあがっていた。

「同じようなもんばっかり、こんなに作ってどうする」と、以前は無責任な立場から冷や水を浴びせていた佳織だったが、営業自粛で大打撃を受けたであろう彼らに同情しないわけにはいかなかった。

大変なのは佳織の会社も同じだった。生ハムの輸入販売を手がけるその会社は、主な顧客である飲食店の休業により、影響をまともに食らった。このままでは在庫が膨らむばかりなので、個人へのネット販売の開始を決めたのだった。

久々の同僚の顔は、どこか照れ臭かったが、心温まりもした。特に仲のいい数人とは、何キロ太ったかを詳細に白状し合った。

「仕事ってどうやってやるんだっけ?」「なにシゴ・トって。フランス語?」

などと軽口を叩きながらも、いざ始めれば、案外あっけなく仕事の感覚は戻ってきた。新しい販路構築に苦戦しつつも、ステイホームでは到底得られない刺激が、脳をくすぐるのを認めないわけにはいかなかった。

気づけば午後1時を過ぎていた。これまでなら同僚と連れ立ってランチ、となるところだが、行っていいんだっけ?と、それぞれが顔を見合わせる。結局、今日のところは単独行動で様子を見ることになった。

みんなが予想よりも太っていなかった事実に、佳織は危機感を覚えた。出社を再開したらすぐに行こうと思っていたインドカレーを、延期することにした。

ナニカカルイモノ、ナニカカルイモノ、と呪文のように唱えながら歩いていると、原宿方面へ通じる小道に、見慣れない店ができている。コンクリートと木材を組み合わせた、いかにも洒落た佇まい。手書き看板にNothing But Coffeeとある。コーヒースタンドのようだ。奥行きがほとんどなく、ビルの壁面にへばりつくように建っている。客が2人、路上でコーヒーを待っていた。中の男性がこちらに背を向けてコーヒーを淹れている。

コーヒーと見ればテイクアウトしていた習慣を見直したはずなのに、食後に寄ろうかな、などと考え始めている。

佳織が一旦離れようとしたそのとき、中の男性が品物を手にこちらを振り返った。

好みのタイプだった。街に出た途端、これだ。

鼻と口はマスクに覆われていたが、切れ長の目にゾクッとした。客にカップを渡す、骨ばった手がセクシーだった。

佳織は、こと恋愛に関しては積極策を貫いている。距離を詰めることに躊躇はない。

しかし、このソーシャルディスタンシングの時勢に、果たしてそれは許されるのか。彼のマスクの下は、どのようにすれば暴けるのか。

佳織は、早くもニューノーマルの壁に直面していた。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子