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COLUMN

2020.06.15

「10歳のある朝、学校行かんでもええやん、と思ったわけよ」(第3話)

画像検索結果にズラリと並んだ女の写真は、どれも同一人物だった。インタビュー記事に添えられたものだろうか、生き生きと話す横顔や、全身ショット。確かに隣に住む女に見える。

古ぼけた外廊下で見かける古着姿の女を、このような晴れがましい場所で見つけるのは不思議な気持ちがした。

佳織は、試しに本文を表示させた。

『不登校の経験生かし、新しい学び方を提案』とのタイトル。誰もが知る雑誌のWEB版記事だった。不登校の経験、と。

佳織は、鰻の肝焼きも忘れて、しばしネットサーチに没頭した。

その結果わかったのは、以下の通り。

・野見山ひかるは、有名な「ラーニングコンセプター」である。学校に通わない子供達に「eラーニング」というシステムを提供することで、自由な学びの場を実現しようとしている。

・野見山ひかるは、1985年生まれである。

・野見山ひかるは、京都市出身である。

日本に何人もいるような名前ではない。年齢や出身が一致している。つまりこの検索結果に現れた女が、幻のクラスメート「野見山ひかる」本人である可能性が高い。

1年前から隣に住んでいたのか。感慨があるような、ないような。

佳織の通っていた高校は、内部進学で大学に入ることができた。8割程度の生徒が、系列の大学に進んでいた。東京に出た佳織は少数派ということになる。「野見山ひかるって覚えてる?」と突然持ちかけるような相手は、いまとなっては思い浮かばなかった。

私服の学校なのに、なぜか「制服風」ファッションでまとめる女子が多い中、佳織は我流を貫いた。夏になれば「西海岸?ここ、海ないやん」と揶揄されるような薄着で登校した。

文化祭の後夜祭では女子でただ一人、DJブースに立ってフロアを煽(あお)った。常にも増して露出度の高い服装で臨んだ。男子たちが、卑猥な掛け声で手っ取り早く盛り上がっていた。それを引き起こしているのは自分なのだ、との自覚はあったが、快感は特になかった。さりとて不快でもなかった。こいつらあほやな、と思っていた。

佳織は、高校の3年間を通し、無理にでも手足を突っ張っていた。そうしなければ、なにか「大きな流れ」に飲み込まれそうな気がしていた。

その「大きな流れ」とはなんだったのか。果たして飲み込まれずに済んだのか。そもそも抗うべきものだったのか。佳織自身よくわからない。

 

佳織が野見山ひかると会話を交わしたのは、関東地方の梅雨入りが報じられた日だった。

その週は、2日間のリモートワークを挟んだ。家にいられるのは悪くないが、佐々木森の淹れるコーヒーが恋しくもある。

雨は夕方にザッと降って、ピタッと止んだ。梅雨というよりは、スコールのような豪快な降り様だった。

30度近くあった気温が一気に下がった。佳織は夕食の買い物に出た。その日初めての外出だった。

「シミズヤ」か「ライフ」かどちらにしようか。惣菜ならシミズヤだが、日用品も買いたいしライフかな。佳織は、小さく迷いながら「つるつるの湯」の前を通りがかった。ちょうど暖簾をくぐって、中から人が出てきた。リラックスしたワンピース姿。目が合った。長い髪を湿らせた野見山ひかるだった。

「あ、こんばんは」

佳織は声をかけた。

ひかるも佳織に気づき、「こんばんは。こんにちは。どっちやろ」と言った。確かにどちらとも言えそうな時間帯だった。ひかるは、風呂上がりなのに、なんだか涼しい顔をしていた。マスクをしていない人間と話すのは久しぶりだ。

「ここ、どうですか?混んでます?」

佳織はとっさに「つるつるの湯」に興味があるような振りをした。

「うーん。この時間は、高いスープの具くらいかな」

隣人が、よくわからないことを言う。佳織は、関わってはいけない相手だったのかと一瞬の後悔を覚えたが、ひかるが続ける。

「高いスープって、具があんまり入ってへんでしょ。ここもそれと一緒で、お湯の中にポツンポツンと2、3人のおばちゃんが入ってるだけ」

「具って」

佳織は思わず笑いそうなった。そして、おばちゃん達がスープ皿に入っている姿を想像した。皆、顔がつるつるしていた。

「今度行ってみようかな。あ、私、進藤です。進藤佳織といいます」

もしかして私の名前を知っていたりして、と佳織は思ったが、ひかるは表情を変えることなく、

「野見山ひかるです」と名乗った。

「ほな、これで」と行こうとするひかるに、佳織は「もしかしてR高校ですか?」と、母校の名をぶつけてみた。

ひかるは、少し驚いたように佳織の目を見て「100年ぶりに聞いたわ。その名前」と言った。

ふたりはシミズヤでビールとつまみを買い、つるつるの湯に隣接する公園に戻った。日がすっかり落ちていた。

「ほんまはどっちかの部屋に行けばええんやろうけど、私が押し込み強盗とも限らへんしな」

ひかるはそんなことを言いながらベンチに腰掛け、黒ラベルのロング缶を飲んでいた。

「でも、こんなところで同級生に会うなんて。すごい偶然」

「同級生。懐かしい響きや」

佳織は、ひかるをリサーチ済みであることは伏せた。

「ひかるさんは東京長いの?」

「うん。もう京都より長いかもしれん」

それなのにこの関西弁か、と佳織は思った。佳織は、もう随分前に関西弁を捨てている。

「佳織は?」

呼び捨てにされた驚きで、ひかるの顔を見る。濃い眉。長い睫毛。波打つ髪が風に揺れている。よく見れば美人かもしれない。

「私は…、あれ?私もなんだかんだで半分近く東京だった。あらあ、もうそうなのか」

佳織は我が事ながら驚いた。

聞けば、野見山ひかるは、小学5年生のある日、登校をやめたそうだ。行かなくていいんじゃないか、と気づいたのだった。父親は普通のサラリーマンで、母親は専業主婦だという。よく許されたなと、同じくサラリーマン家庭に育った佳織は思う。

佳織がR高校に受かったとき、父も母も大いに喜んだ。大学や就職では、あそこまでの喜びを表さなかったように思う。いつも優等生然としていた姉よりいい高校に入れることで、佳織自身の自尊心も満たされた。そんな高校に、ひかるは1日も来なかった。

「来ないなんて、なにそれ」

顔も知らないクラスメートに、卑小な自尊心を見透かされた気がしたことを、佳織は思い出していた。

「高校はどうして受けたの?」ふと、尋ねていた。

ひかるは、少し考えたあと、

「私な、10歳のある朝、学校行かんでもええやん、と思ったわけよ。けど、それやったら、別の朝、学校行きたい、と思うかもしれんやろ。そのためには行く高校がなかったらあかん。って考えたんやろね。まあ、当時の私に言うてやりたいけどな。あほちゃうかって」

野見山ひかるは、明るかった。明るい不登校、そんな最強のカードがあるなんて、佳織の周りの大人は誰も教えてくれなかった。たとえ知ったところで、そのカードを切る機会はなかっただろうが。

ビールが空になる頃には、大人になってからの話に触れていた。

ひかるはここに引っ越してくる前は、恵比寿に住んでいたらしい。

「よう考えたら、私の仕事、どこでもできるやん」と気づき、千歳烏山に来たらしい。「すっかりこっちの方が好き」笑顔で話すひかるを見て、佳織は少々複雑な気分だ。いっぺんくらい恵比寿に住んでみたい。

お互いの仕事についても、少し話した。

佳織が事前に調べた限り、ひかるの仕事は、世間から求められていた。今般、その需要に拍車がかかっていることは間違いないだろう。何せ子供全員が学校に行けなくなる事態が起こり得ると、世界が知ったのだから。

それなのに当のひかるは、力が抜けていた。

「学校なんか、あんなもん行かんでもええ、とか言わはる人いるけど、そういうのに限って東大出てたりするやん。なにも否定することにエネルギー使わんでもええのになあ。私は学校行ってへんこと、恥じてへんけど、かといって自慢でもない。私みたいなんばっかりでも困るけど、私みたいなんが居てもええかな、くらい。世の中案外捨てたもんちゃうし、経験上」

佳織は、この年になって、友達を見つけた気がした。

次の日、佳織は渋谷に出勤した。日を追うごとに、目に見えて人通りが多くなる。かつての街の姿が蘇る。

佳織はなぜか「だるまさんがころんだ」を思い出した。鬼が目を伏せている間に、街は素知らぬ顔で日常に戻ろうとしているようだった。しかし、鬼の存在を頭から振り払うことはできそうになかった。だるまさんはいつまでころぶのだろうか。

会社に着く前にコーヒーを、と思い、宮下公園側を歩くが、店に森の姿がない。代わりにひょろっとしたアルバイト風の若者がいるばかりだ。滑稽なほど自分が落胆しているのがわかる。

昼、しばらく我慢していたインドカレーの店を訪ねる。店主はインド人ではなくネパール人で、店内のそこかしこに、ヒマラヤのポスターが貼ってある。いつもなら行列さえできる店なのに、すぐ入れた。空席が目立つ。

「久しぶりですねー。しっかり食べてねー」

飛行機代が高いせいで、20年ネパールに帰っていないという店主は、変わらず元気だった。思わず、しっかり食べてしまった。

食後も、コーヒースタンドに森はいなかった。そりゃ彼だって休むわよ、と佳織は自分に言い聞かせた。

帰宅したのは19時過ぎだった。佳織が階段を上る音を聞きつけたのか、3階についたところで、隣室のドアが開き、ひかるが顔を覗かせた。足元で犬も一緒に顔を出す。

「おかえり。ちょっとええかな」

「うん。いいよ」ひかるが声をかけてくれたのが、思いがけず嬉しかった。

「あのな、この前言い忘れてんけど、あんた以外にもひとり、同じ高校やったっていう知り合いがいるねん。敷島くんっていうねんけど、知ってる?」

敷島雄太。佳織たちの1学年上だった。

「知ってるよ」

「オンライン飲み会やろうやろうってうるさいねんけど、佳織、そういうのやったことある?」

「あるよ」ひかるの前では、どうにも素直な佳織だ。

「一緒にやる?」

「いつ?」

「今日」

「えっ、いま?ちょっと考えてもいい?」

「うん。ほなまたあとで」

佳織は、自室に入り、ドアを閉めた。そして「なんでやねん」と呟いた。関西弁が漏れていることにも気づかなかった。

靴も脱がずドアにもたれ、しばらく天井を眺めた。ここに住んで長いが、こんな角度から天井を見上げたのは初めてだった。

自分の気持ちが上下左右どこを向いているのか、分かりかねた。

敷島雄太は、佳織が初めてセックスをした相手だった。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子