島尾さんのお父さんは、穏やかな表情だったが、それが却って怖かった。
「娘とはどういうつもりの付き合いか」と聞かれた場合、相手が求める答えは「結婚を前提に…」というやつなのだろうと、頭では理解できる。
しかし、その質問が自分の身に降りかかったことを、体が拒絶しているようだ。夏でもないのに汗が止まらない。
どうにか答えをひねり出すとすれば、
「お付き合いを前提としたお付き合いを…」。
まるで出来損ないの禅問答みたいになりそうだった。下手をすれば、お父さんに叩き斬られる。
いや、待てよ。「結婚を前提に…」でも叩き斬られはしまいか?むしろ、それこそ、いちばん叩き斬られるやつではないか。
どの道、俺は今日叩き斬られるのか?
島尾さんの顔をチラ見する。美貌というやつは、何を考えているのか想像がつかない。どこか達観したような表情だ。
何か言わねばならない。黙っていて許されるのは子どもだけだ。
思えば、流されるままの人生だった。
自分の成績で「ちょうど」受かる学校へ進んだ。
誰かに好かれたら、その誰かを好きになった。
人から誘われるままに、仕事を変えた。偶然の重なりに身をまかせてきた。
そしていま、荻窪でこれだ。
無様だな。と思った。
部屋に並ぶ無数のトロフィーが、虚しいハリボテのように見えた。僕がこの部屋にいるからだ。僕がいると、いつもその場が嘘くさくなる。せめて嘘をつくのはやめよう。いつしか汗はピタリと止まっていた。
「わかりません」
僕の声がした。僕が言ったのだろう。
「わかりません」
間を置かずもう一度、僕の声がした。ほおっておくともう一回言いそうだったので、我に返って食い止めた。
僕の返事を聞いたお父さんが浮かべた表情は、なんとも形容しにくいものだった。
期待した答えではなかっただろうが、さりとて不満げでもなかった。困惑というよりは、むしろ安堵に見えた。少なくとも怒っているようには見えなかった。
そうやってお父さんの表情を読み取ろうと努めたのは、半秒にも満たないようなわずかな時間だっただろう。しかし、島尾さんの表情より先に、お父さんの顔色を伺ったことに、自分自身落胆した。
島尾さんの顔はさっきより白く見えた。綺麗だった。綺麗だと思ったことに、また落胆した。
荻窪駅までの道は、ひとりだった。逃げるようにして、島尾さんの実家をあとにした。ガレージにはいつか乗せてもらったジープが見えた。
巨人が、切れ味鋭い包丁で区画整理したかのような、一直線の街路を歩いた。似通った年代の戸建住宅が、律儀そうな顔をして立ち並んでいる。あたりに人影はまばらで、日がもうすぐ沈みそうだった。
どうしろと言うのだ。さっきから同じセリフを喉の奥で転がしながら歩いている。どうしろ言うのだ。
僕は、答えのない問いに、からっきし役立たずだった。どうしろと言うのだ、と呟くばかりだった。
ふと、キムタクは工藤静香の実家に挨拶に行ったのだろうか、と思った。行っていても行っていなくても、僕には関係ないが、きっと行ったのだろうなと思った。いまの僕の歳より、うんと若かっただろうに。
お父さんが島尾さんのことを「この子」と呼んだり、島尾さんが両親のことを「パパ」「ママ」と呼んだりするのを、僕は聞いた。そのとき、僕は居たたまれない気持ちになった。時間が止まっているようで、正直に言うと、少し不気味だった。
島尾さんの両親は、娘の過去の出来事を知っているのだろうか。
きっと知っている、と思う。僕が「わかりません」と繰り返したときにお父さんが見せた表情は、やはり安堵なのだろう。「わかりません」という僕の答えは、実のところ、限りなく正解に近かったのかも知れない。
島尾さんは時折、僕のような男を連れてくるのではないか。攻撃は最大の防御なり。親にあれこれ言われる前に、男を連れて出頭する。親の方も分かっていて、茶番に付き合う。それが島尾家の風景なのではないか。
僕は初めて、島尾さんのために泣きそうになった。そして、はっきりと思った。僕は島尾さんが好きだ。
変わり者に惹かれやすいだけだと言われようが、相手のペースに巻き込まれているだけだと言われようが、それが僕だ。
駅に近付くにつれ、人通りが多くなった。駅前まで来ると、雑踏と呼べる賑わいを見せていた。僕は立ち止まった。
いま僕は、この人混みに紛れてしまってはいけない。
僕は、回れ右をした。そして来た道を戻り始めた。早足で歩いた。
島尾さんに会って、そして告げよう。僕と付き合いましょう、と。
薄暮れの時間は目が見えにくい。歳をとってきた証拠だ。そんな現象とは裏腹に、僕の心は若かった。少しモヤのかかった住宅街を僕は歩いた。心臓の音が聞こえそうだった。あと数ブロックで、島尾さんの家だ。歩くスピードではもどかしく、僕は走った。本気で走った。全力疾走なんて、何年ぶりだろう。ガレージのジープが見えた。あともう少し。僕はさらにスピードを上げた。
そのときだった。何者かが僕の右ふくらはぎを痛打した。バットで殴られたような激痛だった。右足はもはや体を支えることはできず、僕は前のめりに転倒した。なんとか両手をついて顔面は守ったが、派手に回転した勢いで眼鏡が飛んだ。一瞬、島尾さんのお父さんにやられたのかと思ったが、そんなはずはないと打ち消した。ぼやけた視界ながら、辺りに人の姿がないことはわかった。一体何が起こったというのか。
立とうにも右足が使えないので難儀する。なんとか左足に重心をかけて立ち上がった。しかし、一歩も動けない。
アキレス腱が切れていた。
「工藤さん。受けますね。アキレス腱断裂って。ギプスにメッセージ書きましょうか?」
と言って、山際が笑っている。病院まで見舞いにきてくれるとは、なかなか優しいところがあるが、ニヤニヤしているのがムカつく。僕はどうにも後輩にナメられやすい。
「悪いね。迷惑かけて」
「大丈夫っすよ。店は相変わらず暇なんで」
それって大丈夫なのか、とも思うが、自分がこの有様なので、偉そうなことは言えない。
あの日僕は、島尾さんの実家前で進退窮まった。島尾さんを呼ぶか、救急車を呼ぶか、迷った。
島尾さんを呼び出す以上は、気持ちを伝えなければいけないが、この足の状態では不利だ。あまりにも格好悪い。
しかし救急車を呼んだところで、何せ家の真ん前だ。サイレンの音や赤色灯のチカチカで、いずれ島尾さんの知るところとなるだろう。
僕は意を決して、島尾さんを呼び出した。いま、お家の前にいます。聞いてもらいたいことがあります、と。
島尾さんはすぐに来てくれた。玄関のドアが開いて「ふわり」という擬音が実際に聞こえるような登場だった。いつも謎めいた表情の島尾さんが、この時ばかりは嬉しさを隠していなかった。僕にもはっきりわかった。胸が熱くなった。
しかし、僕の異変を見逃す島尾さんではなかった。その足、どうしたんですか⁉
結果的に、島尾さんが救急車を呼んだのだった。僕の告白は宙に浮いたままだ。
「そう言えば、あれ売れましたよ。工藤さんが推してたやつ」
「おっ、リンドナー?」
「そうそれです」
「へえ、それはよかった。わかる人にはわかるんだよ」
ゲルノット・リンドナーはドイツの巨匠だ。純銀フレームのスペシャリストと言われている。
「どんな人が買ってくれたの。おじさん?」
「いえ、若かったすよ」
「ふうん」
僕は時間を気にするそぶりをした。案外、山際が立ち去らない。
「あ、それから、角にあった『おにぎりカフェ』、潰れたみたいです。やっぱりカフェではパン食べたいっすよね」
別の話が始まった。もう帰れよ。山際の軽やかな身のこなしを見ていると、自分がどんどん惨めになってくる。
山際から目をそらして、窓の外を眺めた。大したものが見えるわけではない。ビルの合間に首都高がわずかにのぞいている。車の走るのが、影だけ見える。
かすかな予感があった。言葉では説明し難い。ただ、そんな気がした、としか言いようがない。
島尾さんが来る。10秒以内に。
山際に会わせたいとは、別に思わなかったが、仕方ない。
10数えて、廊下を見ると、本当に島尾さんが立っていた。
文/大澤慎吾