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COLUMN

2019.10.28

彼女が切り出した別れを、そのまま受け入れた。思いやりのようで、なんのことはない、僕自身が楽になりたかったのだ。(最終話)

以前は体というものを持っていた気がするが、それも定かではない。少なくとも今の僕にはもう形がない。

何かに触れることはない。地面を歩くこともない。食べ物を味わうこともない。泳ぐこと、歌うこと、泣くこと、人間のやることの大部分が、僕にはもう叶わない。

ただし、見ることは許されているらしい。形のない僕の、一体どの部分が「見て」いるのか。考えたところでわからない。

自然現象に例えるなら、僕は「もや」なんかに近いのかもしれない。あるような、ないようなもの。ほとんどの場合、僕は誰にも気付かれない。

しかしごく稀に、僕の意識が反応する人間に出くわす。それは、かつて僕と親しかった人かもしれないし、逆に僕を嫌っていた人かもしれない。

なにしろ記憶がおぼろげで、思い出すのに時間がかかる。

僕には通常の意味での「目」はないので、どこか一点を集中して見ているわけではない。いつもただぼんやりと見ている。

公園のベンチに10歳くらいの女の子が座っている。誰かを待っているのか。じっと前を見ている。

濃い緑のカーディガンに薄茶のスカート。学校からの帰り道らしい。ランドセルを背負ったままだ。昔ながらのシンプルな赤いランドセル。

僕の意識は少女に引き寄せられる。僕はかつて、この子のことを知っていたのだろうか。

夕方、小さな鳥たちが群れて飛んで行く。秋の太陽は、突然全てをあきらめたように暗くなる。

それにしても人気のない公園だ。この小さな女の子と、ガランとした夕闇の公園は相性がいいとは思えない。

木立が死角になって女の子は気付いていないが、男が遊歩道を歩いている。その歩みの先にあるのは、女の子が座るベンチだ。男の目は遠くから彼女を捉えている。

少女に何かしらの警告を与えた方がいいのではないか。

しかし、形を持たない僕に一体何ができるのだろう。茫漠とした意識を、できる限り集中する。

すると、木々がにわかにさざめくほどの風が起こった。色付きつつあった葉が、ハラハラと落ちた。僕がその風を吹かせたのかどうかは不明だが、ほとんど動かなかった女の子は、その風に弾かれるように首を左右に動かした。そして歩み寄る男に気付いた。

しかし、彼女は立ち上がらない。なぜだ。細い肩にランドセルを食い込ませたまま、木製のベンチに腰掛けている。

20メートル、10メートル。男が近付いてくる。さあ、逃げるんだ。

その時、僕の意識が揺らいだ。長い髪を無造作に束ね、ゆったりとした黒いジャケットを羽織った痩せ型の男。僕はこの男を知っている。それも、ずいぶん昔からだ。

この男はかつて、僕の弟だったのだ。

彼は、落ち着いた様子で少女に声をかける。名前でも呼んだのか。僕には聞こえない。女の子は少し恥ずかしそうにしながらも、男の方に駆け寄る。ふたりはそっと手をつないで、出口に向かって歩き始めた。

公園を出る間際、男は急に振り返り、さっきまで女の子が座っていたベンチのあたりを見た。そして夜が始まろうとしている空をしばらく見上げていた。

男は僕を見ているのだ。兄としてのささやかな願望かも知れないが、そう思った。

やがて弟と姪っ子は、住宅街の中を歩いて行った。

途中、女がひとり現れて、彼らに加わった。見覚えがある気がする。弟の妻か。3人はゆっくりとした歩調を保ったまま、進んでいく。

いつしか大きめの道路に出た。歩道沿いに飲食店が立ち並んでいる。

弟はランドセルを代わりに持ってやる。

姪っ子は立ち止まると、ポケットから銀色の何かを取り出し、地面に放った。ネジだった。少女は照れたような笑顔で両親の顔を見上げる。

大人たちも、つられて笑った。やがて子どもを真ん中にして、両側からぎゅっと手をつないだ。

彼らはそのまま長いこと歩いた。手は一度も離さなかった。

僕は集中していた意識を緩めた。

 

夜になると、僕は「見る」ことを休む。

それは一種の礼儀だ。誰しも夜の姿は、隠しておきたいものだろう。

では夜の僕はどこで何をしているのか。もちろん墓にいるのだ。じっと朝が来るのを待つ。

日が昇ると、僕はまた動き始める。

僕は「視点」だけの存在なので、移動は得意だ。

もしかすると大気圏を突き破って、地球を丸ごと眺めることだってできるのかも知れない。

しかし、もっぱら墓のある東京を漂うばかりだ。僕はこの街で生まれ、そして倒れた。

 

何かが意識に共鳴すると、僕はそこへ降りていく。

正直に言って、どのような付き合いがあった相手か、思い出せない場合も多い。それでもいい。

東京の真ん中あたり、瀟洒(しょうしゃ)な家が立ち並んでいる。

その中の一軒に老境の女がひとりで住んでいる。僕の母親ではない。この女と僕に、どういう縁があったのだろうか。相変わらず記憶が頼りない。

リビングでくつろぐ老女の元を、40歳くらいの女と、もう少し若い男が訪ねてくる。

美しい黒髪を持つ女は、顔立ちがどことなく老女に似ている。親子らしい。

男はヒョロリと背が高い。髪を金色に染めている。長袖からタトゥーが少しのぞいている。粗暴な雰囲気はない。

邸内の壁には、部屋、廊下を問わず、たくさんの絵が飾られている。タッチから見るに、どれも同じ画家の作品らしい。

そんな中、絵が掛けられていない部屋がひとつだけあった。四方が防音壁になっているからだ。真ん中にグランドピアノが置かれている。

ピアノが見えた瞬間、僕は何かを感じた。このピアノの持ち主を僕は知っている。あの黒髪の女だ。

僕たちは昔、夫婦だったことがある。そしてある時、僕は彼女を深く失望させた。

彼女の助けになれなかった。彼女が切り出した別れを、そのまま受け入れた。思いやりのようで、なんのことはない、僕自身が楽になりたかったのだ。

昔はどこか頑なだった彼女の表情が、今ではいくらか柔らかい。その母親も笑顔を浮かべている。若い男は、大きな身振りで楽しそうに喋る。

僕は、安心して邸を去る。

僕が熱いアスファルトに倒れて「いない者」になってから、一体どれくらいの月日が経ったのか。僕には時間感覚がない。

何人かの心には痛切な傷を与えただろう。年老いた両親、弟、そして恋人。

そう、僕には恋人がいた。恋人は何度も僕の墓を訪れた。それこそ毎週のように墓の前に佇み、涙を流した。僕はそれを見るのが辛く、昼の間はなるべく墓を離れたことさえあった。

僕にとって彼女は、どれだけ時間が経とうとも恋人だ。それは抗いようがない。

しかし僕とは違って、恋人は今も生きていた。

墓参りの頻度が、少しずつ減ってきた。その代わり、花を携えやってくる歩調がしっかりしてきた。あまり涙を見せなくなった。

やがて恋人は、僕の墓に姿を現さなくなった。

僕は恋人の姿を求めて、東京中をさまよった。禁を破って、夜を見たこともある。しかし、僕が知ったのは、僕の不在という動かしがたい事実だった。

悲しみは、もはや感じることはない。ただなんとなく、懐かしかった。

 

僕はいつまで「見る」ことを続けられるだろう。僕が見るべきものはだんだん少なくなっていく。

今の僕は、僕を思い出す人々の意識そのものなのだ。

 僕の不在がまるっきり当たり前になって、誰も僕のことを思い出さなくなれば、僕は消えるのか。

でも、それも悪くない。

 その日が来るまで、僕は東京の空を漂い続ける。

 

連載小説『大人だって、わからない』は今回で終了します。

ご愛読ありがとうございました。

そして、来週からは新たな物語がスタートします。楽しみにお待ちください。

文/大澤慎吾 撮影/塚田亮平