初めて丸山くんの家に来た。
どっしりとしたマンションだった。
いちばん上の階でエレベーターをおりて、廊下を右に進んだ。
お父さんは突き当たりのドアをノックすると、返事も待たずに自分で開けた。
すると私の目に、ドッジボールができそうなくらい広い空間が飛び込んできた。
「やあ、詩子ちゃん久しぶり。遠いところまでありがとう」
丸山くんが現れ、いつも通り優しく声をかけてくれた。でもいつも通りじゃないところもあった。
坊主頭が少し伸びていた。そして、どうしたことか松葉杖をついていた。
とっても広いその部屋には、どう言えばいいのか、何もなかった。どーんと大きな木のテーブル。手作りみたいな棚。ちょっとくたびれた茶色いソファー。それくらいしか目につかなかった。
壁紙は剥がされて、天井はいろいろな管が丸見えだった。私から見れば工事の途中みたいだった。
丸山くんはもともとお父さんと同じ会社で働いていたそうだ。しばらくたって、ふたりとも会社をやめた。お父さんはひとりで働くことにし、丸山くんは自分の会社を作った。
「久しぶりにスケボーやったんだよ。うちの会社の子たちが最近始めたっていうから。そうなるとちょっと黙ってられないじゃない。昔の血が騒いでさ。で、着地をミスってこれだよ。粉砕骨折」
丸山くんはそう言って右足を指差した。ソファーに座り、ギプスで固められた足を投げ出している。粉砕骨折だなんて、聞いただけで痛そうだ。丸山くんは背が高く、がっしりしていて、その上坊主頭だから、いかにも怪我をしたスポーツ選手みたいに見えた。
「大丈夫なのか?」お父さんは自分が骨折したみたいに顔をしかめていた。
「手術したほうが経過がいいって言われて。チタンのボルトが入ってるんだ」
丸山くんは笑っていた。
私は自分のポケットに入ったままのネジを思わず触った。こんなのが体に入っているのに、なんで笑っていられるのだろう。
「もう普通に仕事してるよ。俺の都合で遅らせるわけにいかないからな。松葉杖で打合せ行くと結構ウケるんだよ」
私は3人の大人たちの顔を順に見回していた。
時々、お父さんがお母さんのほうをチラチラ見ているのがわかった。
お母さんは、あまり見たことのない表情だった。微笑んでいるような、呆れているような。
「大変だな」
「いや、家事や育児をやってるわけじゃないし、案外大丈夫だよ。岸がもし骨折でもしたら、そのほうが大変だと思うよ」
丸山くんは独身だ。
「まあそれはどうかわからないけど」
お父さんは落ち着かない様子で、部屋の中をうろついている。
「俺、足がこんな調子だからさ、なんのお構いもできず申し訳ない。キッチンのどこを開けてくれてもいいから、好きにやって。酒はいくらでもあるし」
「いや、今日は飲みにきたわけじゃない」
丸山くんがうちに遊びに来ると、お父さんとふたり、すごくお酒を飲む。それなのにお父さんはそう言った。そして、
「丸山さあ、今週の月曜何してた?」
と、かすれたような声で尋ねた。
「ん?」
丸山くんは聞き返した。
こっそりお母さんを見ると、どこか困ったような顔をしていた。
「月曜は病院行ったな。足診てもらいに」
「夜は?」
丸山くんの表情が険しくなった。顔がハンサムなので、俳優がお芝居をしているみたいに見えた。そして、息を大きくひとつ吐いてから、
「ドライブに行った」と言った。
「その足の状態で?」
「ああ、それはまあ」
「あんな古い車、代わりに運転できる人間いるのか」
丸山くんの車は私も知っている。丸山くんと同い歳のポルシェだ。小さくてかわいいけど、40年前の車というのは、運転がとても難しいらしい。
でも、丸山くん以外にもあのポルシェを操れる人を私は知っている。
「私よ。私が運転した」
ずっと黙っていたお母さんが、口を開いた。
お母さんのお父さん、つまり私のおじいちゃんは、大の車好きだった。いつも珍しい外国の車に乗っていた。そういうのをちょくちょく運転していたおかげで、お母さんも上手になったらしい。
「詩子ちゃんもいるんだから、今日はもういいだろ、その話」
「詩子に聞かせられないようなことなのかよ」
「いや、別に聞かせられないわけじゃなくて」
「じゃあなんなんだよ!」
広い部屋に声が響く。お父さんが珍しく興奮している。嫌だなあ。
丸山くんが心配そうな顔で私を見る。
お母さんは壁際で腕組みしながら言った。
「いずれにしても、こういうやり方はひどいわよ。詩子を巻き込むなんて、あり得ない」
お父さんとお母さんの仲が悪いとは思わない。それでも時々は口喧嘩をする。私はそれを聞くのが本当に嫌だ。自分の体がバラバラになるような気がして、怖くてたまらない。「ケンカやめてよ」とか言えればいいけど、そんなの言える子どもなんかいない。いつもなら自分の部屋に逃げ込む。でも今はそれもできない。
そうだ。いつかの放課後に早希ちゃんから教えてもらったやり方を試そう。
「ガチ空想」と早希ちゃんが名付けた方法だ。
「もしバレエで世界一になったら」、
「子役で売れてバラエティにも進出」、
「実は大金持ちの一人娘だったことがわかる」、
誰かに聞かれたら笑われて終わり、みたいなことを思いっきり詳しく空想するのだそうだ。
「そうすればあっという間に時間がたつよ。気がついた頃にはだいたいケンカは終わってる」
早希ちゃんの家にはお父さんがいない。お母さんとおばあちゃんと早希ちゃんの3人暮らしだ。誰と誰がケンカするのかはわからない。でも早希ちゃんの家はうちよりももっと狭いから、ケンカが始まったら逃げ場はなさそうだ。
私がいちばんやりたいことはなんだろう。恥ずかしがらずに考えてみよう。
私は馬を飼いたいと、いつも思っているのだ。北海道に旅行した時、牧場で見た子馬がかわいくて忘れられない。
そうだ、学校まで馬に乗って行こう。
マンションのガレージ。車に混じって、ひとつだけ馬小屋があるのだ。そこで茶色の子馬が私を待っている。おはようウタちゃんと言っているみたいに、子馬は鳴く。ニンジンを一本あげたら、さあ登校しよう。
パッカパッカと楽しい足音が通学路に響く。ランドセルがいくら重くてもへっちゃらだ。みんな羨ましそうに私を見る。旗を持って立っている「安全委員」のおじさんもびっくりして口を開けている。
途中に大豪邸がある。その庭は、まるで森みたいに木が生い茂っている。あそこに寄り道しよう。きっと外からは想像できないほど、自然がいっぱいなのだ。丘があり、川が流れ、珍しい花も咲いているだろう。木と木の間を私と子馬は行くのだ。
しばらく進むと池が現れた。朝日が当たってキラキラしている。子馬はかがんで池の水をおいしそうに飲んだ。
すると「おーい」と声がする。岳くんが黒い馬に乗ってこちらにやってくる。岳くんも馬飼ってたんだ。
岳くんは3年生の途中に転校して来た。ひとりだけランドセルを使わず、リュックサックで学校に来る。前に遼太郎くんがそのことを責めたら、「ランドセルじゃなきゃダメなんて、そんな決まりどこにもないんだよ」と涼しい顔で言った。これは本当の話だ。
算数の時間に、指された私が答えを間違ったとき、何人かが笑った。岳くんは「笑うなよ」とつぶやいた。これも本当だ。
岳くんと並んで、池の周りを馬でめぐる。楽しい。これが本当だったらいいのにな。
「茶色い子馬、かわいいね」
「ありがとう。黒い馬もかっこいいよ。岳くんに似合ってる」
「うん、本当はポルシェがよかったんだけどね」
「ポルシェ?」
ダメだ。目の前で起こっている揉め事が、空想の中に割り込んできた。
ポルシェでのドライブが、やはり問題らしい。
お父さんは、いつの間にか弱々しくなっていた。
「もういいよ」などと言っている。
お母さんは、目が赤かった。でも泣いているわけではなかった。どちらかというと怒っているみたいに見えた。
丸山くんが「俺が悪いんだよ」と言っていた。
私は空想に戻ろうと思ったけど、無理だった。
丸山くんの家を出て、3人で歩いた。誰も喋らなかった。
西早稲田という駅に着いた。帰りは地下鉄。ホームにはお客が少ししかいなかった。
電車がやってきた。ホームドアが開いて、私とお父さんが乗り込んだ。でもお母さんは乗らなかった。
「ごめんね。先に帰ってて」
お母さんがそう言ったのと同時にドアが閉まり始めた。飛びおりようかと思ったけど、お父さんが私の腕をつかんだ。
電車が動き出してもまだ、お父さんは腕を放さなかった。私はそれを乱暴にほどいて、空いていた席に座った。
お母さんにもう二度と会えないんじゃないかと思った。怖すぎる空想だった。
文/大澤慎吾 撮影/塚田亮平