わたしが割った皿は、ずいぶん前からこの家にあった。
父のイタリア土産だったように思う。鮮やかなレモン柄が、今はもう黄色と白の欠片になって散らばっていた。
確かに素敵な皿だったが、以前やや大げさに褒めたことがあった。それ以来、母はこの皿を使うことが多くなった気がする。
母のお気に入りというよりは、わたしを喜ばせるためだったのか。
床に叩きつける一瞬前の、かすかな躊躇の感触が、まだ両手に生々しい。
母とふたりで目に見える破片を拾い終わり、わたしは掃除機を取りに行く。スイッチを入れ、皿が割れた周辺をぎこちなく掃除する。
モーター音の奥で、母の声が聞こえた。何を言ったかまでは聞き取れなかった。掃除機を切り、恐る恐る母の方を見る。
「雪ちゃんありがとう」
思いもよらぬ言葉に戸惑う。瞼は赤いものの、母の表情はいつもの硬さが影を潜め、不思議と穏やかだ。
「ママだってこのお皿、何度割ってやろうと思ったか知れない。あなたがやってくれてせいせいしたわ」
何も言えない。ただ脈だけが速く打つ。
「最初は本気で別れる気だった。それなのに花の絵が返ってくるなんて。パパから本当に何も貰ったことはないけど、絵だけは惜しみなく描いてくれるの。ずるいわよね」
テーブルの上には今年の離婚届。生き生きとした花が咲いている。
マツバ氏は、父が花の絵を描くのは珍しいと言った。母に宛てる時だけの楽しみだったのだろうか。
「それなのにある日お皿なんかくれて。どうせ一緒にいた女が気を遣って選んだんでしょう。パパって、何が起こっても平気な人だから。そんな時でも自分だけニコニコしてたのよ、きっと」
父への悪口は何千何万と聞いてきた。しかし、この母の口ぶりは今までのものとはどこか違った。母は静かに続けた。
「毎年思っているのよ。しっかり署名の入った離婚届が返ってくるかもしれないって。もしそうなったら、私どうするのかしらね」
これまで、ひたひたと迫りくる母の影を、拒むことで精一杯だった。母の心の内を、わたしは汲み取ろうとしなかった。自由で純粋で放埓(ほうらつ)な男と出会ってしまった女の人生を、知ろうとはしなかった。
母は、皿の破片がまとめられた紙袋をゴミ箱に捨てた。
「でも、あなたたちが居てくれてよかったわ。それだけは確か。あと、雪ちゃんのピアノ、大好きよ。これからも頑張りなさい」
驚いた。いきなりそれは、困る。そんなことを言われたら、どうしていいかわからない。わたしは何も言えずに立っていた。ただ掃除機を握りしめていた。
9月も半ばに入り、大学が再開した。出勤したわたしは、ひとりの学生が自殺を図ったことを知らされた。
3年生の男子学生、ヴァイオリン専攻だった。わたしが伴奏を受け持っていた。
毎年秋の大きなコンクール。その予選会がこの夏に行われ、彼も出場した。実力を発揮できたとは到底思えない出来だった。演奏後、控え室の壁を蹴破るなど荒れた。
技術は高いものを持っていた。しかし、彼が楽しそうにヴァイオリンを弾くのをわたしは見たことがなかった。もちろん、音楽を職業にしようというのは、並大抵のことではない。楽しく弾きなさい、なんて余程の巨匠にでも言われない限り響かない。それでも、もう少し、音楽に心を委ねてくれたらと、歯がゆさを感じていた。
ヴァイオリンは他のどの楽器よりも、若い世代の台頭が激しい。子供用サイズが細かく設定されており、幼いうちから高度な奏法を身につけることが可能だからだ。実際ここ何年も十代の奏者が国内トップを競っていた。
彼もそのプレッシャーにも晒(さら)されているひとりだったのか。自室で手首を切った。幸い一命は取り留めたが、傷は神経に達し、もう楽器は弾けないだろうとのことだった。
キャンパス内で学生たちとすれ違う。痛ましいニュースは既に彼らの耳にも届いているのだろう。いつもなら親しげに声をかけてくる学生も、伏し目がちにわたしの横を通り過ぎる。
宇田川大介から連絡があったのは、そんな頃だった。
「東京はやっぱり駐車場代高いですねえ」
手をひらひらさせながら、大介は言った。
知り合いのバンドのドラマーにアクシデントがあり、急遽客演を頼まれたらしい。ライブは昨日終わったのだそうだ。
「車で来たんですか?」
「そりゃそうですよ。ドラム積みますし」
「あの車、ですか?」
「はい。もちろん」
今にも壊れそうなあのバンが、高速道路を走るところを想像できない。
ここで会ったのは間違いだったかも、と思う。
勤務先に併設されたカフェ。昼時とあって学生たちも大勢行き交っている。中には大介の風貌を物珍しそうに眺める子もいる。金髪にタトゥーは目立ち過ぎた。音大生は外見に関しては一様におとなしい。
「大人になるまで音楽大学ってものがあるなんて知らんかったなあ」
大介がぼそっと言う。
わたしは音楽を職業にするには音大以外の道を思いつかなかった。
「どうやってプロになれたんですか?」と聞くと、
「プロになるまで止めなかったからです」と大介は大きな目でわたしを見据えた。
「いや、ほんまはそんな大層な話ではなくて、高校生の時分からいろんなバンド掛け持ちして、金もらってたんですよ。ドラムって叩けるやつ少ないから。そのまま今に至ってます」
誇るでもなく、へりくだるでもなく、大介は言った。
「ちょっと場所変えませんか?わたし今日は午前中で仕事終わりなんです」
「いいですよ。ドライブでもしますか?」
ドライブ、じゃなくてもいいのだが…。
ペーパードライバーのわたしは、東京の道にまるで疎い。おまけにこの車にはカーナビが付いていない。それでも気にする様子はない。大介はハンドルを右に左に切って行く。
わたしはヴァイオリンの学生の話をした。
大介はじっと前を見ていた。
「俺がガキの頃に、カート・コバーンが自殺したんですよ」
ニルヴァーナのボーカル。わたしでもさすがに知っている。
「好きやったんでショックでね、それから自殺にまつわる本を借りてきていっぱい読んだんです。内容はさっぱりわかりませんでしたけど。
で、それを見てた母親に言われたんです。『自殺は天才のやることやで。あんたみたいな凡人には100年早い』って。まあ母親なりに心配やったんでしょうね。漫画しか開いたことのない息子が、そんなん読み始めたから。けど俺が天才やったらどうすんねん、って思いましたよ」
雪ちゃんのピアノ、大好きよ。母の声がまだ耳に新しい。ついこの前言われた一言なのに、ずーっと昔にまで遡ってわたしは救われたような気がしている。そんなもの、錯覚に過ぎないのかもしれないけれど。
しかし、誰かが、もちろんわたしであってもよかったのだが、彼のヴァイオリンを大好きだと言ってあげれば、それだけでも彼の何かが変わったのではないか。
車はどこを走っているのか、時折「飯田橋」とか「四谷」といった標示が見える。しばらく二人とも無言になる。
「『迷った時には墓参り』って知ってますか?」
大介が口を開いた。
「有名なミュージシャンの言葉です。『迷ったら自分のルーツに立ち返れ』ぐらいの意味なんですけど、俺アホやから、ある時それ聞いてほんまに親父の墓参り行ったんです。けど、そうしたら実際にスーッとしたんですよ。それからバンドも結構うまく回り始めて」
墓参り、か。
バンコクのホテルで仁の訃報を聞いた時から、ずっと心に引っかかっていた。とうに吹っ切れているはずなのに、いなくなると気にかかるのだ。
父とマツバ氏は、ひとりの女性の墓守をしながら暮らしている。会ったことのないわたしにさえ、あのヒマラヤスギと丸い石が彼女を偲ばせる。
それは拠り所、というものなのか。では母にとっての拠り所は何なのだろうか。長年かけて自分の趣味一色に染めた家なのか。父からの変則的な愛情なのか。それとも、本当にわたしを含む子ども達なのか。思えば母には友達がいない。家族しかいない。わたしたちが家族でいられる時間はあとどれくらいなのだろう。
その寺の名はすぐに思い出せた。
「九品仏浄真寺」
仁と結婚していた頃、お盆には必ずお参りしたものだ。
仁はそこで眠っているのだろう。
大介に今から連れて行ってくれないかと頼んだ。
「じゃあこれをお願いします」
と道路地図を渡される。カーナビがないから仕方ない。後ろで絶えずゴトゴトいっているドラムセットと共に、わたしは仁のお墓を目指した。
途中、自由が丘で花を買い、九品仏に着いた時には、もう日が傾き始めていた。
京都とは比べるべくもないが、東京においてはかなり大きな寺だ。お彼岸にはまだ早い平日。人影はない。
今朝の強い風のせいか、松並木から外れた枝が参道を覆っている。境内は、ところどころ改修されていて、年月の経過を思わせる。10年ぶりなのだ。
本堂を右手に見ながら、奥へ奥へと進む。
「俺みたいなの連れてきて、旦那さん怒りませんかね」と妙に真顔で大介が言う。
どうだろう、と心の中で思う。
かつてここに来るときは、もちろん仁と一緒だった。仁の両親も一緒だった。今日、仁はいない。悲しい、寂しい、というよりは不思議な気分だった。
寺の裏手は広大な墓地が広がっている。手桶は檀家ごとに専用のものを預けてあった。しかし、今のわたしが使うわけにもいかないだろう。浄真寺と書かれた来客用の手桶を使う。
水を入れたそれを「持ちますよ」と大介が手に取る。
「岸家」の墓の位置。足が覚えているかと思いきや、大いに迷った。結局、墓地入り口の見取り図まで戻って確認した。
「重いのにごめんなさい」「大丈夫です」
ようやく見つけた「岸家之墓」。墓石は記憶のままだったが、その奥に、真新しい卒塔婆(そとうば)が立てかけられている。それを見た途端、前触れなく涙が溢れた。気持ちを涙が追い越すようだった。
しばらく、ただ泣いた。
花立てには、まだ枯れていない花が差してあった。目には入っていたが、うまく意味を結ばなかった。
誰かが、仁のお墓参りをしたのだ。新しい家族もあったのかもしれない。考えてみれば当たり前の可能性に、今の今まで気づかなかった。
お水をあげ、花を供え、手を合わせた。大介も神妙な顔をして、縁もゆかりもない墓に手を合わせてくれている。
ふと、思う。もし仁と添い遂げていたとしたら、わたしはこのお墓に入ったのだ、と。それはとても不思議な気持ちだった。選ばなかった未来が、目に見える形でそこにあった。
わたしは失ったのだろうか。それとも別の何かを得たのだろうか。
駐車場まで歩いて戻る。日暮れが近い。
「雪さん、お腹すきませんか?」
「すきました」
わたしたちはバンに乗り込んだ。大介がエンジンをかける。
この辺りは高い建物が少ない。西の空が赤かった。
カーナビのない車は、ガタゴトと大きな音を立てながら、走って行く。
文/大澤慎吾 写真/塚田亮平