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COLUMN

2020.04.27

「娘が幸せだと感じる?占う前に幸せかどうかわかるの?あなた本当に占い師?」(第4話)

洋館、と呼ぶのがふさわしい建物に入る機会は、多くはない。外から見る限り、そう大きくはないものの、細部に至るまで凝ったつくりだった。

私と兄は、ゆるやかなドーム状になった天井を思わず見上げた。

「なかなかすごいところに来たね」

兄が、思わずつぶやく。応接室かダイニングかどちらがいいか問われ、兄はダイニングを選んだ。椅子の背もたれが頭より高い。兄の赤シャツがここでは妙にしっくりくる。

「古いばっかりで。あちこち傷んでいるんですよ」

私たちに紅茶をすすめながら、斉田さんが言う。ここへ通された者は、まず例外なく建物に感じ入るのだろう。そのため、彼女の口からは、謙遜の言葉が自動的に漏れ出るようだった。

まもなく平成が終わるが、この洋館は、昭和どころか、大正や明治からそこにあったと言われても不思議でなかった。私たちの実家(私はいまだにそこに暮らしている)とは、古さの種類が違う。

私が住むのは、父が40年ほど前に買った建売住宅だ。軽量鉄骨、というのがもてはやされていた時代らしく、重厚さとは程遠い。クレーンで吊り上げたらそのまま引っ越しできそうな箱型の家である。最近、雨戸が動物の悲鳴みたいな音を立てたり、ベランダの柵の塗装がほとんど剥落したり、給湯器の調子が運頼みだったり、情緒のない傷み方をしている。

毎年、春と秋に日本に戻ってくる母は「10年後、この家あるかしらね」とため息をつくが、ドイツ人のオットーさんはなぜか面白がっている。秘密基地みたいに見えるらしい。

私は30代を迎え、我が家のそんな「ガタ」にどこかシンパシーを覚えるようになってきた。よくない傾向だと思う。

斉田さんは私たちの親世代のはずだが、もう少し年老いて見えた。顔立ちは整っていて、若い頃はさぞ綺麗だっただろう。しかし、痩せすぎていた。白い指は枯れ枝のようだ。爪だけが鮮やかな赤で、浮き上がって見えた。

アンサンブルになった、紺のジャケットとワンピースを着ている。柔らかなのにハリのある生地は、いかにも仕立てがよさそうだ。こんな贅沢な部屋着を見たことがない。

 

金曜の夜、兄が実家に現れた。食事中、「明日、予定ある?助手頼むよ」と言ってきた。反射的に渋い顔になる。最近、会社の居心地が急速に悪化している。遠山さんの奥さんに付き従って、大城さん宅を急襲するなどしたからだ。

数名の噂好きは、相変わらず私と遠山さんとの間の、ありもしない関係を疑っているらしいが、当の遠山さん、大城さんは、私に対して何を言うでもするでもない。

表面上は同じ時間が流れている。真面目に午前の仕事をこなし、持参した弁当を食べ、真面目に午後の仕事をする。

今までと何も変わらない。しかし、変わらないがゆえに、私は落胆するのだった。私の人生なのに、私の影が薄い。

兄を羨ましく思った。すぐどこかへ行って何かになる兄が。

「出張占いに来てくれって。高輪。昼の1時。12時に出れば間に合うだろ」

兄は私の意向も聞かず、話を進めた。

「出張って家に行くってこと?」

「うん。ちょくちょくあるんだよ。知り合い同士の紹介とかで」

「明日はどんなお客さんなの?」

「お金持ちの女の人」

「やらしい言い方だね。年齢は?」

「まあまあいってるんじゃない。結婚した娘さんのことで悩んでるらしいから」

兄はそう言ったのだった。

 

「主人は土日はゴルフ三昧ですから、いつも私ひとりなんです。娘が結婚する前はあれこれ楽しかったのだけれど」

斉田さんは、さびしげに漏らした。

「娘さんが結婚されたのはいつですか?」

兄が訊いた。

「24歳。もう10年になるのね」

斉田さんは少し遠くを見た。

「その歳で、僕は1回目の離婚をしましたね。いや2回目の結婚だったかな」

「あら、そう。さすが占い師は波瀾万丈だこと」

伏し目がちだった斉田さんが、兄の顔をまっすぐ捉えた。

「はい」

兄はにっこりと笑った。

 

斉田さんは、ひとたび口を開くと、案外よく喋る人だった。

「千春は一人っ子です。九段下にある小学校に入りました。最初は電車通学が心配で心配で、こっそり車で送ったものです。校門の前までは行けないので、隣の靖国神社でおろして…」

「…そのあとは、そのまま中高と進んで、テニスとバイオリンはずっと続けましたけど、誰に似たのか少しおてんばで、いきなりダンスをやりたいなんて言い出しまして。ダンスって言うからワルツかタンゴかと思ったら、ヒップホップとかなんとか。女の子がヒップだなんて、って叱ったりして…」

「…大学に入ると、時々家を空けるようになって。お友達の家にいるからなんて嘘ついて。主人とふたり、心配で眠れないこともありましたわ…」

「…大学を出たあとは、一度就職したんです。社会を見ておいたほうがいいだろうって…」

千春さんが就職したのは、誰もが知る大手商社だった。私が一次面接で落とされた会社だ。そこを、結婚のため1年半で退社。

お相手は横浜の開業医の跡取りだそうだ。5階建の持ちビルに内科と産婦人科が入っている。披露宴は山下公園を望むホテルニューグランドで盛大に行われたという。国会議員の先生が乾杯の音頭をとったらしい。

斉田さんは、娘の話を次々と打ち明けていく。いったい今日は誰の占いなのか。兄は急かすでもなく、相槌を打ちながら聞いている。

私も一応助手なので、何か仕事をせねばと思い、メモをとった。まだ新品のモレスキンのノートに、見知らぬ人の年譜ができあがっていく。私のノートじゃなくなったみたいだ。

「お幸せそうでよかったですね」

話が一段落したところで、兄が朗らかな声を発した。それを聞いた斉田さんの表情がサッと曇った。

「あなた、本当にそう思ってらっしゃるの?千春が幸せだと感じる?占う前に幸せかどうかわかるの?あなた本当に占い師?」

兄に詰め寄らんばかりに、斉田さんは言いつのった。

「私、千春が幸せだなんて、ひとことでも言いましたか?占ってください。千春は幸せになれますか?」

どうやら千春さんは、いま不幸らしい。私にもそれはわかった。

タロットカードには一枚一枚意味がある。なおかつ絵柄が天地どちらを向いているかで、良い意味にも悪い意味にもなり得る。

占いに興味がないと言いながら、これくらいはなんとなく知っている。

兄は器用な指を動かして、カードを検分していたが、

「うーん」

と、うなった。

「千春さんは幸せだ、と出るんです」

斉田さんは、目をきつくして、

「これでも、ですか」

と、1通の封書を兄に差し出した。

特徴のない茶封筒だった。宛名や差出人は書いていない。何度か開封を繰り返したのか、ところどころよれている。

「見てもいいですか」

そう問う兄に、斉田さんは無言でうなずいた。

中にはA4のコピー用紙が1枚。明朝体の文字がタイプされていた。

『産婦人科の次期院長に子供がいないことは、院の評判に関わります』

怪文書、というやつだろうか。実物を初めて見た。

斉田さんは、テーブルの上で拳を握りしめた。骨ばった指が音を立てそうに震えた。この一文を見るたびに、いつもそうしてきたのだろう。

「なぜ千春がこんなことを言われなければならないのでしょう。なぜこんな…」

斉田さんの目が、見る間に赤くなる。

「子供を産めない女として生きていくこと、男にはわからないわ。認めても辛い、開き直っても辛い、落ち込んだらもちろん辛い。毎日そんな辛い目に遭っているのよ、あの子は…」

斉田さんは自分の細い腕を乱暴に掴んだまま、宙空を睨んでいる。

聞いていいのかわからない話を聞いてしまい、私は体が縮む思いだった。

そんな様子をよそに、兄は涼しい顔をしている。

「うん、やっぱり『カップの10』なんですよねえ」

などと言っている。

兄が指し示したカードには、青い空に虹のようなものがかかっていた。その虹の上に重なるように、聖杯らしきものが10脚、浮かんでいる。それで「カップの10」か。そして、虹を見上げるように寄り添う男女。さらには、その傍で手を取り合って踊る子供達。いかにも幸福な感じの絵柄だ。これが当たっていたらいいのに、と柄にもなく思った。

「あなた、どこでも出張してくださるって聞いたけど、本当に?」

ふと、斉田さんが兄に尋ねた。

「はい。フットワークが売りです」

「あの子に、千春に、この手紙を見せてもらえないかしら」

「いいですよ」

嘘でしょ。兄が、今日も軽い。

その手紙って、怪文書だよ。そういうのは弁護士とかの仕事じゃないの。だいいち、そんなもの見せられて、娘さんが傷つかないわけがない。私でさえも気が重い。

「ごめんなさいね。私は行けないの。千春が幸せなわけがない。不幸な娘の顔は、私見たくない」

と、斉田さんは声を振り絞るようにして、言った。この人、少し変だ。

屋敷をあとにした私たちは、並んで坂道を下った。新緑が濃い。

「不幸な娘さんなら、なおさら会いに行くよね」

私の疑問は消えない。私の母なら来てくれる、はずだ。

「占いの結果、確かめに行くか、横浜まで。でもその前にちょっと着替えるわ。この格好は目立ちすぎる」

自覚はあったらしい。兄は品川駅のユニクロで、上から下まで揃えて戻ってきた。

もらった住所にたどり着いた頃には、だいぶ陽が傾いていた。

横浜の中でも、海からは遠いエリアだったが、まだ新しそうな豪邸が立ち並んでいた。今日は建物に気後れしてばかりだ。

兄は度胸があるのか鈍感なのか、門に向かって一直線に進む。

そのときだった。駐車場のドアが自動で開き、ポルシェのSUVが私たちを追い越し、中に吸い込まれていった。

しばらくして運転席から降りてきたのは、30代前半ほどの細身の女性。顔立ちが、斉田さんをそのまま若くしたようだった。おそらく、彼女が千春さんなのだろう。

そして、彼女は車の後部ドアを開けた。その胸に何かが抱きかかえられている。それは、青いサロペットを着せられた、1歳くらいの男の子だった。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子