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COLUMN

2020.05.04

「母は、私が幸せになることが、許せなかったのかもしれません」(第5話)

女性の腕の中で、男の子は眠っていた。全身の力が抜けているのか、首がクニャリと垂れ下がっている。まだ鋏を入れたことのなさそうな髪が、ふわふわとして綿毛のようだ。

『産婦人科の次期院長に子供がいないことは、院の評判に関わります』

印刷された文字が脳裏をよぎる。

この子は、誰?

別人の家か。それにしては女性の顔が斉田さんに似ている。結婚して変わったという「筒井」という姓が、確かに表札にかかっている。

これが、斉田さんのいう「不幸な娘」の現状なのか。

女性の目が、私たちの姿を捉えたのがわかった。静かな住宅街。私は思わず兄の背に隠れようとした。しかし、頼みの兄は、女性の方へとどんどん近づいていく。盾を失った私はうろたえる。

だしぬけに兄は言った。

「お子さんいるじゃないですか!」

私は耳を疑った。いや、文言自体には、共感しないわけではないが、それを声に出してしまう神経を疑った。しかも兄は笑っているようだった。背中越しでもそれがわかった。

「突然すみません。占い師の長嶋夏海と申します。今日昼間、千春さんのお母様にお会いしました」

兄は堂々と自己紹介をしている。女性の顔を恐る恐る見た。通報されてもおかしくない。

その人、千春さんは、軽くため息をついた。

「実家からの留守電で聞きました。母は何をお願いしたのでしょう?」

「千春さんがお幸せかどうか、案じていらっしゃいましたよ」

「そうですか。母が」

片手にバッグ、片手に子供。赤ちゃんと呼ぶには大きい。いつまでも立ち話では重そうだ。千春さんは気持ちを切り替えるように、

「お入りになりますか?」

と言った。

「お邪魔します」

兄が快活に応えた。

1日に2度も豪邸を訪れるのは、疲れる。豪邸には私の知らないことが多すぎる。

広々としたLDKは、20畳ほどもあろうか。

夫である「次期院長」は当直で不在とのことだった。小さな息子は、部屋の一角に設けられたお昼寝スペース(私の居室くらいある)で、かすかな寝息を立てている。千春さんが傍でその頭を撫でる。何かのCMのような光景を横目で見ながら、私たちは、ベッドと間違えそうな巨大ソファーに座っている。

やがて千春さんがこちらにやってきて、

「今日は、母がお世話になりました。大変だったでしょう」

と、兄と私に等しく視線を注ぎながら言った。

「あ、いえ、別にそんな、私は」

急に話しかけられて驚いた。昼間の高輪では、私は何も聞かれなかった。千春さんの母には、私の存在が見えないかのようだった。

「母にはこの2年ほど会っていません。ですので、あの子のことも、母はまだ知りません。おかしいとお思いですよね」

千春さんはそう言うと、眉を少し曇らせた。

 

兄が占い師として優秀かどうかは、よくわからない。しかし、相手の話を聞き出すことが、占いの重要な要素だとするならば、兄はその才能に恵まれているらしい。

千春さんは、自らの母について、語り出した。

「父は代々あの家で生まれ育ちました。母はごく当たり前の家の人間です。そのことで祖父母たちから嫌な目にも遭ったようです。そのうえ父は仕事ばかりの人でしたので、家にいなくて…」

ごく当たり前の家、か。千春さんは、自分の生家を、当たり前でないと感じているらしい。

「母は、斉田の家を守ることに自分の存在をかけていたかのようでした。恨みつらみのあるはずの家を、です。家名を絶やすのではなく、守ることで、斉田の人間に勝とうとしたのかもしれません。ですから私の結婚は婿入りしてくれる人を、との希望を持っていました。対して父は、私の好きにすればいいと常々言っていました。結局私は、自分の気持ちで相手を決め、家を出ました。そのことが母との間のしこりになっているのだと、考えていました。でもそれだけではなかったのです」

愉快な話題ではないだろうが、千春さんは抑えた口調だった。聡明さがうかがえた。

「思えば、私が生まれたときから、それは始まっていました。母は、不安だったのでしょう。私が斉田の人間だということが。自分だけがどこまでいっても別の家の人間だということが。私が生まれて、母はより一層孤独になったのかもしれません。母は私に多くを求めました。バイオリンにテニス、お茶やお花もやりました。もちろん勉強にも厳しかった。家庭教師の方が2人、毎日のように家にやってきました。そして、こう言ってはなんですが、どれも及第点は取ってきたつもりです。しかし、いい成績を取れば取るほど、母の態度は険しいものになっていきました。母は、私が幸せになることが、許せなかったのかもしれません」

娘が優秀であるがゆえ、自尊心を保てなくなる母。そんな母親がいることを、私には想像だにしなかった。ゾッとした。

「サラダで、最後に残ったレタスって、お皿に貼りついて食べにくいでしょう?」

千春さんが突然言い出した。

「確かに。お箸があればなあ、って思います」

「小さい頃はつい手を使いそうになって、その度に母に叱られました。まだ小学校に上がる前でした。私は初めて、サラダをきれいに食べ終われたのです。最後のレタスはナイフで折りたたんでからフォークで刺せばいいんだって。自分で発見できたのが嬉しくて、母に伝えたら『それよりカチャカチャうるさかったわよ。気をつけなさい』と、褒められるどころか、また叱られてしまいました。もちろん些細なことです。母は覚えてもいないでしょう。でも、いつまでたっても、あのレタスのことが忘れられないのです。何よりそう言ったときの母の冷たい目が」

大きな窓から差し込む陽がだんだんと弱くなってきた。千春さんは照明をつけた。柔らかい光が部屋を包む。

「ところで、お母さんから預かってきたものがあるんですが…」

不意に兄が言った。

「ちょっと、それはもう…」

私は慌てて、兄を制しようとしたが、遅かった。

「なんでしょうか」

千春さんは、兄が取り出した封筒に目をやった。

「あまり、気分のいいものではないかも。それでも見ます?」

そんなこと言ったら、ますます興味をひくだろう。

「はい…」

兄は、茶封筒を千春さんに手渡した。

三つ折りにされたA4の紙を、彼女は開いた。そして、文面に目をやった。その瞬間の千春さんの表情を私は見た。それは不思議な変化だった。不安げだった顔が、なぜか和らいだように見えた。そして1秒にも満たないわずかな時間で元に戻った。

「これについて、母はなんと…」

「千春さんが、辛い目に遭っているに違いない。これがその証拠だ、と。でも、証拠というなら、彼の存在より確かなものはないですよね」

兄は、まだスヤスヤ眠る男の子の方を振り返った。

「どうしましょう。この紙。捨てておきましょうか?」

兄が簡単に言う。千春さんには聞こえていないようだ。

「私の周囲で、私の出産を知らないのは、両親だけです。恥ずかしいことですが」

「これ、書いたのは…」

「母だと思います。恥ずかしいことですが」

千春さんが繰り返すのと同時に、「ウィ、ウィ、ウィーーン」という声がした。男の子が目を覚まして、泣き出したのだ。

「セミかと思った」と、兄が呟くのには取り合わなかったが、私も実はセミを思い出していた。小さい子って、こんな声で泣くものなんだ。

千春さんが、駆け寄って息子を抱きかかえる。「起きたの」「汗かいたね」「オムツ替える?」言葉がわからないはずの息子に、千春さんは優しく声をかける。

手早くオムツ交換が済んでもなお、男の子は泣き止まない。千春さんの胸で、金属的な声を張り上げている。

「あ、ごめんごめん。これね」

千春さんはそう言うと、カーペットに落ちていた青い積み木を拾い上げ、小さな手に握らせた。途端に、男の子は泣くのを止めた。優しい魔法のようだった。

「確かに、私は長いこと子供ができませんでした」

千春さんは、我が子に視線を落としながら言った。

「でも、義理の両親、病院の人たち、もちろん夫にも、責められたことはありません。一度もです。それなのに母は、私が不幸な境遇だという筋書きを立て、のめり込んでいきました。最初は本当に胸を痛めていたのかもしれません。でもいつしか、私がボロボロになって帰ってくることを望んでいるように思えてきました。そうすれば、ようやく自分が上に立てるのだと。私は実家との連絡を避けるようになりました。そんな頃、この子を授かりました。嬉しかった。それと同時に、私はこれで母と縁が切れる、と思ったのです。胸が痛むような、晴れるような不思議な気持ちでした」

私は昼間に会った婦人のことを思い出していた。悲しみに震えるような横顔。

「でも、それでも、お母さんに、お孫さん見せてあげたら、きっとお母さん喜ばれると思うんですけど」

私は思わず口走っていた。

「出しゃばってすみません。そんな単純な話じゃないですよね」

「いえ、いいんですよ。そう、単純。実は単純な話かもしれません。この子がこの世に出てきた途端、また違う感情が動いたんです。産んだ赤ちゃんの顔を初めて見たとき、世界はもっとシンプルでいいんじゃないかと直感しました。この子が好き。始まりはそれだけだったんじゃないかって。

今日、母のバレバレの怪文書を見て、私も私でまだ余計な意地を張っていたんだなと思い知りました。…この子の顔、若い頃の母にそっくりなんです。ほんとに綺麗な顔」

千春さんは、いつしか穏やかな表情になっていた。え。ちょっと待ってよ。子供が産まれるってそんなにすごいの?長年の行き違いが、こうも変わるの?。いいことだとは思う。だけど、なんだか私は置き去りにされたような気がした。

すっかり日が暮れた道を、田園都市線の駅まで歩く。丸い月が出ている。

「斉田さん、お孫さんに会えるかな?」

と、問う私に兄は、

「会えるよ」

と、請け合った。

「そう?だといいけど」

「だって『カップの10』が出たんだから。家族の幸せを象徴するカードだよ」

「でもあれは千春さんの運勢でしょ」

「斉田さんに回すよ」

「そんな都合よく回していいの」

「いいんだよ」

 

恋愛に結婚、出産。占いにそれらを委ねる人がいる。これまで私はそういう人を遠ざけてきた。

でも、それは、占いを遠ざけているのではなく、人生の節目となり得る出来事から、私自身が遠ざかろうとしていたのではないのか。

「今日はありがとうな、規子。俺一人だったら千春さんの家には上がれなかったよ」

兄が珍しくまともなことを言う。

「あら、お役に立てて良かったです。そういえばさ、最近よく実家に来るけど、なんで?」

「うーん。まあ不思議に思うわな、そりゃ」

兄は言葉を探すかのように少し黙った後、言った。

「規子、お前にとてつもない不運が近づいている、らしい」

「え、こわ。でもどうせ当たんないんでしょ」

「だといいんだけどな」

「やめてよね。占い師がそういう冗談言っちゃダメだよ」

軽い口調に努めたものの、妙な胸騒ぎがする。月がさっきより大きくなった気がした。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子