「遠山晋也がいま誰と居るのか、すぐに占ってもらえませんか」
と、その女性は言った。
自分のプロフィールを伝えるのももどかしい様子で、彼女は夫の情報を兄にぶつけた。遠山さんと一致していた。私の知らない話ももちろんあったが、この人が遠山さんの奥さんであることは、間違いないように思えた。
私は仕事なら粘り強い方だと思うが、こと恋愛については負けを認めるのが早い。遠山さんは、奥さんのところではなく、無論私のところであるはずもなく、誰かのところにいるのだ。
その衝撃は、確かに私を痛めつけはしたが、私が痛みを感じる資格があるのかとも思った。
夢の中の遠山さんと、私はいろいろな場所に行った。いちばん気に入っているのは、どこかの山道を歩く場面だ。私たちは、何度も繰り返し歩いた。
木々が茂るその山道には、きまって白い犬が現れる。グレートピレニーズのような大型犬のときもあれば、手のひらに乗りそうなチワワのときもある。飼い主の姿はなく、犬だけが親しげに近づいてくる。私が犬に気を取られている間に、いつも遠山さんの姿を見失うのだ。私は泣きそうになりながら、遠山さんを呼ぶ。大声で叫んでいるつもりが、まるで声が出ない。自分の吐く息で胸が潰れそうになる。山道はただ、しんと静まり返っている。でたらめに走り出し、登っているのか下っているのかさえもわからなくなった頃、不意に遠山さんが私の目に飛び込んでくる。いつもそこで私は眠りから覚めるのだ。
思い出すたび、心が温かくなる。そして、情けなくなる。
「カードの結果、旦那さんの居場所がわかりました。いまから行きますか?」
兄が言った。あの兄にわかるのか?
「…はい」
迷いを振り切るように、奥さんは応じた。
「では、行きましょう。規子もついてきて」
兄が私の名を呼んだ。とっさに何を言われたのかわからなかった。
「えっ?なに?」
「助手なんだからついてきて。妹の規子です。助手をやってくれています」
兄は、遠山さんの奥さんに向かって、勝手なことを言っている。奥さんは、私がそこにいたのに初めて気づいたような風情でこちらを見て、曖昧に頭を下げた。
兄は、まるでマントのような黒い上着(どこで買ったのか)をキドちゃんから受け取ると、ドアを開けて、奥さんを外へ促した。
これはもう、占い師の領域を越えていないか。しかし、兄と遠山さんの奥さんをふたりにするのも、なにやら不穏だ。私はひとまず、兄に従った。
キドちゃんの店から数分歩いたコインパーキングに、奥さんは車をとめていた。柏ナンバーのワンボックスカーだった。兄が助手席、私は後部座席に座るべくスライドドアを開けた。シートには何かのキャラクターのボールと、キラキラしたプラスティックの杖が残されていた。子供たちはいま、誰がみているのだろう。つい気になる。
「散らかっていてすみません。子供が乗るもので」
奥さんは口ではそう言ったが、心は別の場所にあるようだった。
「遠山さーん」と、いつも夢の中でそうするように、私は叫びたかった。しかし、夢の中と同じように、私の声は声にならない。
遠山さんの気配がする車内に、遠山さんの姿はない。ハンドルを握る奥さんと、子供たちのおもちゃ。なぜか私、そして兄。
「どちらに行けばいいでしょう」
すがるような声で、奥さんが言う。
「あなたの手がわかっていますよ」
兄は自信に満ちた物言いだ。私はなにも言うことがない。
占いの作法について私はまったく無知だが、兄のそれが定石から外れていることは、さすがにわかる。
水晶やカードを駆使したり、念じたり、唱えたり、やおらズバリと言い当てたり、そういうのとあまりに違う。
占いをする者とされる者が、助手席と運転席に並んで、夜の東京を移動している。
おまけに兄は、都内の道にやたらと詳しい(運送会社で「専務」までいった)。
「この先、右から合流してくる車が多いので気をつけてくださいね」
なんて、カーナビみたいなことを言っている。占いでもなんでもない。
きっと奥さんは、遠山さんの行動について、なんらかの証拠をつかんでいる。居場所もわかっている。誰かに背中を押されたいだけだ。
30分ほど走っただろうか。車は板橋区に入っていた。この辺りはほとんど来たことがない。大山とか仲宿とか知らない地名が目に飛び込んでくる。
そして、私はそれを見た。意味がわかるまでに少し時間がかかった。
本蓮沼駅。
私はその駅名を、ひとりの口からしか聞いたことがない。
「大城さんって最寄りの駅どこなの」
いつだったか、昼が一緒になった。話題に困って、私は尋ねたのだった。
「“もとはすぬま”ですぅ」
大城さんは語尾が伸びる。
「もとはすぬま。何線だっけ?」
「都営三田線ですぅ。知らないんですかぁ。神保町まで一本なんですよぉ」
大きな目を見開き、まつ毛を上下させながら、大城さんは確かに言ったのだった。
私の胸騒ぎを裏付けるように、遠山さんの奥さんは不意に停車した。一棟のマンションが見える。10階建。外壁がくすんでいる。
前席のふたりが同時にドアを開けた。赤シャツに黒マント、ドラキュラのような兄が魔力を授けたのだろうか、奥さんに先ほどまでの頼りなさはない。
「ここですね」
兄の言葉にうなずいた奥さんは、意を決したようにエントランスに消えた。後に続こうとする兄を慌てて捕まえた。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん。これどうすんのよ」
声を押し殺す。
「どうするもこうするも。こうなるべくしてこうなってんだよ」
「私の上司の奥さんなのよ」
「え、そうなの。奇遇だね」
「のん気なこと言ってる場合じゃないよ。相手は私の後輩だよ。多分だけど」
兄は、
「大丈夫だよ」
そう力強く言ってから、
「規子は大丈夫か?」
と聞いた。
なんで私に聞くの、と思った。
古いマンションなので、オートロックはない。管理人も夜間は不在だった。奇妙な3人組は、誰の目にも触れることなく、303号室の前までたどり着いた。錆止めが塗られた玄関には、表札は出ていなかった。
「この住所が夫のラインに送られてきていたので」
奥さんは、問われる前に答えた。兄は素知らぬ顔をして聞いている。
私は改めて、自分のどんくささを呪った。実態のない恋をし、勝手に振られ、挙げ句の果てに修羅場に巻き込まれている。しかし、不様な恋の爆破解体には、これくらいのインパクトがあってもいいのかもしれない。もう半ばヤケクソだった。
奥さんが、チャイムを鳴らした。旧式なので、カメラは付いていない。若い女性の一人暮らし(のはずだ)、用心して居留守を使ってもおかしくない。むしろ出るほうがおかしい、と思う間もなく、インターホン越しに応答があった。
「はい」
いつもの甘えたような口調は影を潜めているが、声の主は大城さんに違いない。奥さんは兄をちらっと見てから、
「遠山と申しますが」
と、言った。
インターホンの向こうで、かすかに息を飲み込むような音が聞こえた。しかし、応答は途切れず、
「少しお待ちください」
との返事があった。
この時点まで、私は大城さんと顔を合わせると思っていなかった。我ながら読みが甘い。今更逃げたくなったが遅かった。
ドアが開いて、大城さんが顔を出した。グレーのパーカに、派手な紗のスカート姿だった。大城さんは、人間が3人も立っていることに驚いたようだった。しかも、そのうちひとりはドラキュラで、もうひとりは職場の先輩なのだ。
しかし大城さんは、思いのほかメンタルが強かった。
「散らかってて、入ってもらえないんで」
と、断ってから、
「遠山さんの奥さんですか?用件はなんでしょうか」
と、切り出した。普段のように語尾を伸ばさない。怖い。
「どう思っているのか知りませんけど、遠山さんは、ここに来たことはないですよ。来てって言ったことはありますけど、来てくれませんでした」
「じゃあ、どこにいるんですか」
奥さんはまた、弱った。
「どこって言われても。とにかく、ここに、遠山さんは、いません」
一言一言区切るように、大城さんは断言した。
私たちは、大城さんのマンションから退却した。
奥さんは「よいところまで送ります」と言ってくれた。また車に乗るのも気がひけたが、兄はさっさと乗り込んだ。
ハンドルを握り、前方を見つめながら、奥さんは話し始めた。
「私、3年前にある手術をしました。体を1箇所、大きく切りました。ごめんなさい。急に」
兄は黙って聞いていた。3年前。私の夢に遠山さんが現れた頃だ。
「実家から母が来て、子供たちを見てくれました。夫も、よくやってくれたと思っています。でも、初めて手術の痕を見せたとき、夫は吐いてしまったんです。夕食のものを全部。それから、彼は毎晩、その痕を撫でるようになりました。まるで罪滅ぼしみたいに。私はそれが嫌でした。夫の気持ちはわかります。受け入れなければとも思いました。それでも、耐えられなかった。彼が吐いたこと、そして撫でること。どちらも受け入れられなかった。そして、夫は時折家を空けるようになりました。行き先は聞けません。私のせいかもしれないから。私が病気にさえならなければよかった」
奥さんは、そこまで言うと、黙った。
「見事に外れてしまいました」
兄が言った。
「カードでは確かに出たんです。女性のところに違いないって。僕の占い、たまに外れるんですよね」
「でも、外れてよかったです」
奥さんは独り言のようにつぶやいた。重い荷物を下ろしたあとのような声だった。
「あの、私、遠山課長の部下なんです」
後ろの席から、思わず、言ってしまった。
奥さんは、赤信号を見落としそうになって、急ブレーキをかけた。
「すみません黙ってて。遠山さん、お弁当、いつも美味しそうに食べてらっしゃいます。それは罪滅ぼしなんかじゃないと思います」
本心では、罪滅ぼしでもいいじゃないか、と思っていた。でも、私ほど、お弁当を食べる遠山さんを観察している人間は他にいない。本当に、遠山さんは、美味しそうに食べているのだ。それは私が保証する。
「そうですか。ありがとう」
奥さんは、その夜初めて笑った。暗い車内。しかも斜め後ろからで良く見えなかったが、確かに笑顔だった。
「あの、遠山課長のお家って、ペットいますか?」
ふと思いついて、聞いてみた。
「彼、動物全般苦手なんです。小さい頃、白い大きな犬に噛まれたのが怖かったみたいで」
なんでそんなこと聞くのか、と少し不思議そうではあったが、奥さんはそう明かしてくれた。
白い犬が夢に出てくるたびに、遠山さんがいなくなったのは、怖かったからなんだな。私は少し嬉しくなった。
車を降りてふたりになってから、兄に聞いてみた。
「助手、必要?」
「うん、時々いてくれるといいかも。ほら、俺って惚れっぽいじゃん。止めてくれると助かる」
「何それ」
「それにしても、どこだここ?」
「占いなよ」
私はその夜を境に、占いに、または、占いを求める人に、少しだけ興味を抱き始めたのだった。
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子