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COLUMN

2020.04.13

「姓名判断してみたんだよ。『近々大病を得る』って出たんだよ」(第2話)

渋谷の奥、代々木八幡寄りのエリアを「奥渋」と呼ぶらしいとは聞いていたが、わざわざ来たのは初めてだった。通勤ルート外を歩くこと自体が久々だ。

古くからの商店と、最近できたであろう店が混在していた。新旧どちらもこぢんまりとして、あたたかい感じだった。

安くてうまい店を見つけた、という兄の言葉から想像されたのは、五反田とか中野とかだったが、こう来たか。

電話の後、店名だけが送られてきた。スペルを2ヶ所も間違えていたが、いつものことだ。なんとか店は見つかった。

しかし、外観も内装も、どう見てもおしゃれな店だった。安くてうまい、を打ち出しているようには思えない。

間違えたか、と考え始めたとき、

「規子!」

奥から兄の声が聞こえた。店内でその一角だけ妙に暗く、落ちくぼんでいるかのようだった。

4人掛けの席に陣取った兄は、髪をオールバックに近いくらい撫でつけ、薄く色の入ったサングラスを掛けていた。

真っ赤なノーカラーシャツに、黒のワイドパンツ。そしてなぜかウェスタンブーツを履いていた。

こういう人とはできるだけ距離をおきたい、誰もがそう思うような出で立ちだった。断っておくが、私の知る兄はこんなのではなかった。普通にカッコよかった。やはり、マジシャンからの占い師、という人生遍歴がまずかったか。

いざ、こうなった兄を目の当たりにすると、その前に妹として何かできることがあったのではないかと思う。

ここが実家なら、感情をぶつけることもできなくはなかっただろうが、奥渋だった。兄に気づかれない程度に深呼吸をした。

あちらも一応仕事帰りだろうと思い、

「お疲れ様」

と言ってみたが、誰にも聞こえないような小声しか出なかった。

「よく来てくれた」

兄はニコニコ笑いながら、私にもその暗い席に着くよう促した。

「なんでも好きなもの頼んでいいよ。こんなおしゃれな雰囲気なのに、食べたら意外とうまいんだよ、ここ」

不思議な褒め方をしてから、

「キドちゃん!」

と、兄が大きな声を出した。

半分ほど見える厨房の奥から、坊主に近い短髪の男性が現れた。丸い顔に優しげな細い目。ふっくらした体。生成りのエプロン姿のせいもあってか、全体的に蒸したジャガイモを思わせるような人だった。兄は「キドちゃん」呼ばわりだが、年長に見える。

「この人が規子。こないだ話したでしょ、妹。しっかり者の」

しっかり者と呼ばれて喜ぶ人間などいないということを、兄はまだ知らないらしい。

キドちゃんは

「どうも初めまして。夏海くんにはいつもお世話になっているんです」

と、頭を下げた。そして

「お好きなもの、なんでも言ってください。どんどん作ります」

と言った。男たちは、やけに私に食べさせたいようだった。そんなに栄養不足に見えるのだろうか。あ、それとも食いしん坊に見えるのか。確かに最近肉が落ちにくくなってきた。

私が30歳の悩みに気を取られるのをよそに、兄はメニューを凝視していた。

「なんか読みにくいと思ったら、サングラス掛けてるからだな。外してもいいか?」

と、なぜか私に聞く。

「いいよ。もちろん。どっちでも」

「そうか。ありがとう」

律儀に礼を言ってから、兄はサングラスを外した。昔から時々調子が狂う。

兄が見つめるメニューを私も目で追う。牛スネ肉やら、オマール海老やら、そこそこ高そうな食材名が並んでいる。兄はそんなに羽振りがいいのだろうか。

いや、この赤いシャツ、どう見ても安物だ。光沢というよりは、ただテカっているだけだ。

私の気持ちなど、知ろうはずもないが、兄が少し声を潜めた。

「俺、週1か2でここで占ってるんだ。そのせいかどうか、店の客が増えてんだって。だからキドちゃん、飯代タダでいいって」

安くてうまいもなにも、人の厚意にあずかっているだけではないか。

でも不思議と安心した。兄が占いで儲かっていたら、それはそれで少し怖い。

「この席で、占いしてるの?」

「うん」

「だから暗いの?」

「なんか施工ミスでこの席だけ照明が当たりにくいんだって。普通の客を通しにくいって言うんで、ちょうどいいから使わせてもらってる」

兄は相変わらず、隙間を見つける才に恵まれているようだった。

 

キドちゃんの料理は確かにおいしかった。肉はよく煮込まれてとろけそうだったし、魚には素人には到底作れない複雑な味のソースがかかっていた。

2杯目のグラスワインで、不覚にもいい気分になってきた。夕方の、遠山さんのひとことすら少し薄らいで、それはそれで悪くなかった。兄はアルコールを受け付けない体質なので、水を飲んでいた。

そろそろ食事が終わろうかという段になって、

「今日来てもらったのは、キドちゃんの飯がうまいからだけじゃなくてね」

と兄が切り出した。

タダ飯のくせに偉そうに、と心の中で思いつつ、続きを待った。

「オットーのことなんだよ」

兄の顔から笑みが消えた。

オットーさんは母の夫だ。

父の死後、母はひとりで私たち兄妹を育てたが、私が20歳を迎えたとき、オットーさんと再婚した。受け入れるのにしばらく時間がかかった。

オットーさんはドイツ人ロックミュージシャンだ。70年代の西ドイツで、一世を風靡したことがあるらしい。メロディーのあるようなないような、難解な音楽をやる人だった。ライブになると、わずか1曲に5時間かけたりもした。もらったCDを何度か聴いてはみたが、私にはよくわからなかった。

そんな音楽性とは裏腹に、普段のオットーさんは、とても穏やかでおおらかな人だった。日本通で、ある程度の日本語が喋れた。私に会うと、「ノリコー」と、両腕を翼のように開き、大きな体で抱きしめた。いつも、スケール感の違いに圧倒された。しかしそうされるたび、いつしか自分でも意外なほど、幸福な気持ちになっていることに気づいた。

兄はこんな人間だから、愛情が率直だ。気に入れば気に入る。それだけだ。オットーさんのことも単純に慕っていた。

「オットー・ツィンマーマンで姓名判断してみたんだよ。そうするとさ『近々大病を得る』って出たんだよ。また母さん悲しむんじゃ可哀想だろ。規子さあ、誰かいい医者知らない?」

兄はいつになく真剣な目をして私を見た。しかし兄の目が真剣であればあるほど、私の心はどうにも冷めていくのだった。

「お兄ちゃん、一応確認なんだけど、姓名判断ってドイツ語バージョンあるの?」

「知らない」

兄は即答した。

「じゃあどこの言語で調べたの?」

「カタカナで」

「オットーさん、カタカナ使わないと思うけど」

「そうなの?日本語喋れるのに?」

私はこの男に偏差値で及ばなかったのだ。なんか悲しくなってきた。

「まあこう言ってはなんだけど、その大病、大丈夫だと思う」

「そうかなあ。出たんだけどなあ」

「だから、出てないんだって」

私は少しイライラした。母と兄は似ている。昔から相性がいい。思ったことはなんでも口に出す。多少の衝突はあっても、結果オーライとして収まることが多い。そんなふたりを羨む自分を、いつも私は忌々しく思うのだった。

「うーん」

まだ兄は腕組みをし、深刻な表情を浮かべている。深刻になればなるほど、服装の滑稽さが際立つ。

「あのさ、人が選んだ仕事に対してこういうこと言うのは失礼だとは思うけどね、お兄ちゃん、なんで占い師になったの?できると思えないんだけど」

前から聞いてみたかった。つい意地悪な心が勝った。

しかし、答えは返ってこなかった。兄に客が現れたからだ。

「すみません。長嶋夏海さん、いらっしゃいますか」

勢いよく扉を開けたその女性は、キドちゃんを見つけるなり問いかけた。

肩までの黒髪が少しだけ乱れている。ずいぶん急いでやって来たのか、息が荒い。タイトなベージュのトレンチコートは流行とは無縁な感じで、キドちゃんの店とは少し不釣り合いだった。年齢は40歳前後か。

キドちゃんがこちらを指差すよりも一瞬早く、兄が颯爽と立ち上がって、

「私が長嶋夏海です」

と言った。

長嶋夏海っていい名前だなと、人生で何万回も思ったことを、また思った。

デザートを食べようとしていた私は、キドちゃんに「どうぞこちらへ」と言われ、その暗い席から移動した。テーブルはキドちゃんの手によって、速やかに片付けられた。

それにしても、人は満ち足りた食事の直後に、占いなどという繊細な作業をこなせるのか、甚だ疑問だ。

兄は、私が見たことのない兄だった。いや、どこかで見たことがあった。それは私がまだ小学生の時の、中学生の兄だった。急激に背が伸び、声が低くなった。この先、どうなってしまうのか、恐怖すら感じる変化だった。

いま兄は、暗いテーブルで、女性と向かい合っていた。紙と鉛筆、そしてタロットカードのようなものが見える。

きょうだいの仕事現場を覗くというのは、意外と緊張するものだと知った。

コートを脱いだ女性は、薄手の白いニット姿になっていた。とってつけたような真珠のネックレスが浮いていた。

兄は、私と喋るときより、2トーンほど落ち着いた調子だった。

「お名前をお聞かせください」

それっぽいことをそれっぽい口調で言っている。

「トオヤマサオリです」

「トオヤマサオリさん」

トオヤマと聞いて、一気に酔いがさめた。

「遠い山、でいいですか?サオリさんはどのような字でしょう」

遠山。私が3年間思い続けている名字。

女性は、サオリの漢字を言うより先に

「トオヤマシンヤがいま誰と居るのか、すぐに占ってもらえませんか」

と声を絞り出した。

遠山晋也。遠山課長のフルネームだ。こめかみが痛くなりそうだった。

私は手にしていたデザートフォークを、落とす前になんとかテーブルに戻した。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子