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COLUMN

2020.07.27

なぜ、会うのか。なぜ、いまなのか。そして母は、なぜ、消えたのか。(最終話)

いつの頃からか、車で聴く音楽のボリュームが小さくなった。以前、少なくとも20代の頃までは、車体がきしむくらいの爆音を出すことも珍しくなかった。

果たして俺は音楽を聴いていたのだろうか。音楽どうこうというよりは、耳にトゲを刺したかっただけなのではないか。だとすれば、そのトゲはどこに行ったのだろう。まだ刺さっているのか。溶けてなくなったのか。

森はそんなことを思いながらハンドルを握る。流れる曲に合わせて、指で時々リズムを取るが、これは癖みたいなもので、心が浮き立っているわけではない。

「これってマーヴィン・ゲイ?」

隣に座る佳織が尋ねた。

「うん。そうだよ」

「ちゃんと聴いたことなかったわ。結構前になんかのCMで使われてたよね?」

「うん。そうかもね」

「まだ生きてる?」

「いや、もういない。実の父親に射殺されたんだ」

「え、嘘でしょ?」

「ほんと」

マーヴィン・ゲイを話題にするとき、どうしてもこの悲しい最期が頭をよぎる。事件そのものが不幸だし、彼の遺した美しい音に、意図せぬ暗い影が差すのも不幸だ。しかし、父親との軋轢がなかったら、マーヴィン・ゲイはマーヴィン・ゲイたり得たのか。彼の優しく切ない声を聴くたび、森の心にはいくつもの疑問符が付くのだった。むしろ、その疑問符に耳を澄ましているのかもしれない。

松川という男に、母に会ってくれないかと請われて、森の心は揺れた。なぜだ、と思った。なぜ、会うのか。なぜ、いまなのか。そして母は、なぜ、消えたのか。

母の不在について、子供の森は何度も何度も、数えきれぬほど考えた。しかしわからなかった。少年になった森は、自作の物語を作り、生きることにしたのだった。

森は、強く、シニカルな男であるべきだった。あらゆることを笑い飛ばさなければならなかった。そのために、自分に与えられた「森」という名前を拠り所とするのだった。

目を閉じると、いつもそこは鬱蒼とした森だ。夜明け前だろうか、弱い光が木々の間から差し込むべき瞬間を待っている。地面からは霧が立ち込めている。森は容易に人が立ち入れないほどに深い。水の強く流れる音が途切れない。

森には森の秩序があり、生きるものと死ぬものが、常にせめぎ合っている。朽ちて倒れた木の表面から、新しい芽吹きが起こっている。

やがて昼になり、思いがけず明るい光が降り注ぐ。暖められた空気が立ちのぼっていく。それらが夜を連れておりてくる頃、森は静寂に包まれる。強く、揺るぎない静寂だ。

そうやって何千年、何万年と森は森であり続けた。訪れたこともない「森」が、自分の中にはっきりと見える。森と名付けられた男は、そうやって生きてきた。しかしいま、その「森」が遠い。

東名を降りた車は、しばらく一般道を走った。その後、西湘バイパスという有料道路に入った途端、さえぎるものなく海が広がった。それまでどこに隠れていたのか不思議に思えるほど、いきなりの海だった。江ノ島あたりの灰色の海ではなく、思いのほか青い。

「おお、海だ」

佳織の口から見たままの感想が漏れた。森はそれを聞いて、少し笑う。

「たしかにそう言いたくなる海だね」

口調は穏やかだが、ハンドルを握る森の表情は、いつもより硬い。佳織は、森がこのドライブに自分を誘った真意を、まだ測りかねていた。20数年ぶりに会う母親。そしてその母親は、意思を表明できる容態ではないという。これから起こることが、森にとって不穏でないよう祈る気持ちだった。しかし一方では、森の心の殻が破裂する瞬間を見てみたいという意地悪さも、自分の中に隠し持っていた。

車はバイパス終点を過ぎ、そのまま進んだ。左手に海は変わらないが、右手に突然山が迫ってきた。急に心細くさせるような道だった。山へ山へと入っていく。途中「根府川」という駅を過ぎた。駅前には店らしきものの一軒も見当たらない。カーナビが「この先、狭い道路に入ります。実際の交通規制や道幅に注意して走行してください」と女の声で言う。森は細い道にハンドルを切る。品川ナンバーの車は、ここでは決して歓迎されないのだろうなと、佳織は思う。それぞれの立場。それぞれの意見。答えのない問い。

しばらく蛇行を繰り返し、坂道を登った。「目的地周辺です。音声案内を終了します」とカーナビがまた喋った。丘の上に白い建物が見えた。森の母が暮らすホスピスについたようだった。車がゆっくりと建物に近づく。

 

あのおかしな春と夏のこと。私忘れないわ。

あの人は毎日のように来てくれたけど、いつも部屋に入ってこないのね。遠くから、寝ている私を見ているだけ。どうしたっていうの。いままでは背中をずっと、何時間でもさすってくれたのに。

ずいぶん長いこと、私はここに寝ている。みんなが話すことは聞こえているけど、私の耳には動物の唸り声みたいにしか届かない。体の大きな園田先生はカバ、看護師の前島さんは痩せたニワトリ。私は人間の言葉を話しているのに、みんなには伝わらないみたい。でもいいわ。

ある日、見慣れない若者が来た。最近のあの人と同じように、ガラスの向こうから私を見ていた。ガラスに手をついて、ときどき顔を伏せたりした。そしていきなり「ドン」とガラスを叩くから、私びっくりした。あの人や園田先生や前島さんもそばにいなかったから、私怖かった。

でもその若者は、私を怖がらせるつもりはないようだった。肩を震わせていた。泣くのを我慢しているみたいだった。

どうしたの?と私は思った。泣きたいなら泣けばいいのに。知らない女の子があとから来て、若者の背中をさすっていた。あの人が私にしてくれるみたいにさすっていた。ものも言わず、ずっとさすっていたわ。さすってくれる人がいるのはいいことよ。だからきっと大丈夫よ。私は若者に向かってそう言ったわ。

それにしてもおかしな春と夏。私忘れないわ。

 

ここについて来てよかったのかどうか、佳織は結局わからなかった。森の心の奥の奥にあったもの。そこに少しでも触れてしまったこと。森という人間を深く知っているのだと、ともすれば優越感に浸りかねない自分を危惧した。

森の母は、とても小柄だった。もともとそうだったのか、長い闘病で小さくなってしまったのか。薄緑のパジャマ姿でベッドに横たわり、こちらを見ていた。焦点がうつろではあるものの、森の姿が見えているらしいことはわかった。彼女が森のことを認識できたかどうか、素人目には判断できない。園田という恰幅の良い医師は森に「あなたは今日、充子さんに会った。それは確かなことです。また来てください」と静かに言った。

ひかるが引越し先を決めたというので、夜、ワインを携え佳織は隣室を訪ねた。一緒に鰻を食べてから少し日にちが空いていた。会えるのが残りわずかだと思うと、かえって誘えなかったのだ。

「あ、ワインありがとう。けど、今日はちょっとやめとくわ」

ひかるはそう言うと、炭酸水を自分のグラスに注いだ。ひかるの部屋は、以前のまま心地よく散らかっていて、引越し準備に取り掛かっている様子はない。

お互いにここ数日起きたことを、とりとめなく喋った。森の母のことは黙っていようと思っていたのに、話し始めると言葉が次々にこぼれた。森の背中の無防備な振動は、まだ佳織の手にしっかりと残っていた。ひかるは佳織の目をまっすぐ見て、話を聞いていた。そして「森くんはええ人やね」と言った。そう言ってもらえて、佳織は嬉しかった。足元に寄ってきたリキの背をそっと撫でた。初めて吠えられなかった。しばらくリキの体温を感じたあと、

「どこに引越すの?」と佳織は尋ねた。

するとひかるが「見に行こか」と言った。

「見に行くって、いまから?」

「そや」

「え、無理でしょ。明日仕事あるし」

「いけるいける」ひかるは平然と言う。

ふたりはひかるの部屋を出た。佳織は小ぶりなバッグを手にしているが、ひかるは手ぶらだ。

佳織が先に立って階段を下りようとすると、

「あ、ちゃうちゃう。こっちこっち」とひかるが呼び止める。

「え?こっち?」

佳織が振り向くと、ひかるが銀色の鍵を手にして上を指差す。

「屋上。私、屋上に住むねん」

 

ワンフロア上がっただけなのに、屋上からの眺めは、部屋からのそれとは桁違いだった。周囲に高い建物がないせいで、想像以上に遠くまで見晴らせた。新宿のビル群が遠くで光っている。

「こんなに見晴らしがいいなんて知らなかったなあ」

「ええやろ」

佳織の方が断然長く住んでいるはずなのに、屋上に一軒分の住居スペースがあることなど知らなかった。そしてあとは広大なベランダと呼ぶべき空間だ。ひかるが両手を広げて言う。

「大家さん家族が昔住んではったんやて。お子さんらが独立してからはずっと空けてたみたい。ちょっとガタがきてるけど、これから直していきましょうって。それでな、このベランダを庭みたいにしようと思ってんねん。楽しそうやろ」

「もう、どこ行っちゃうのかと思ったら何ここ。近すぎるんだけど」

佳織は嬉しさを隠すように言った。言いながら目が潤みそうで恥ずかしかった。でも疑問もあった。

「どうしてわざわざ引越すの?」

「空間が欲しいなって」

「空間?」

「私な、赤ちゃんできてん」

「え?」

「いるねん。ここに」ひかるは照れたように笑って、お腹をさわった。

 

佳織と森の休みが合わさった日、しばらく降り続いていた雨がようやく止んだ。展望台に登ろうという佳織の希望で、ふたりは六本木に来た。雲間から懐かしの青空がのぞいている。

「森くん家ってどの辺?」佳織が訊く。

「あの辺」森が指差す。

「そうなんだ」

「え、わかったの?いまの説明で」

「うん、大体ね」

「やるね」

高いはずの東京タワーを見下ろすというのが、不思議な感じだ。街を眺めながら、ひかるの引越しの顛末を森に伝えた。

「で、佳織ちゃんはオムツ替えの講師になるんだ」

「うん。つい言っちゃったのよ。私、オムツ替えなら姪っ子で慣れてるよって。5,6回しかしたことないんだけど」

佳織は、姪の優奈とは結構仲がいい。密かにラインの交換だってしている。いつか優奈がくれた「私はね、ママみたいじゃなく、佳織ちゃんみたいに生きる!」という文面は、姉には内緒だ。

「あ、そうだ。森くんにも役割あるらしいよ」

「俺も?」

「子供が歩けるようになったら、屋上でキャンプするんだって。森くんキャンプ係ね」

「おお、いいね」

ひかるはひとりで産むつもりのようだった。晴れ晴れとした顔を見ていたら、相手のことはあえて尋ねなくていい気がした。最近知り合ったはずなのに、なぜか大昔から知っているような友だと、佳織は思う。

「東京でキャンプか。最高だね」森が呟いている。

「森くんは、東京好き?」佳織が訊く。

「好きだよ」森は迷わず答えた。

「もちろん気に入らないところはあるよ。道はグチャグチャだし、ビルは統一感ないし、看板は派手で汚いし、まだ言ったほうがいい?でもなんだかんだで好きだ。悪く言われるとちょっと腹立つ。生まれた場所だし。他人に親父の悪口言われる、みたいなもんだよね」

「そう思えるのって、いいね」

東京ってどんな街だろうと佳織は思う。どんな格好でも許されて、24時間いつ目覚めてもよくて、流行が次々に生まれる(そして消える)街。10年もあれば顔がすっかり変わる街。薄情なほど過去を忘れる街。

ニューノーマルもなにも、東京のノーマルはいつだって最新なのではないか。そういうところ、私は好きだ。

「ちょっとそこ立って」森に後ろから呼ばれた。iPhoneを構えている。写真を撮ろうとしているらしい。少し恥ずかしいが、応じる。構図に迷っているのか、森がなかなか撮らない。

「あれだな。跳ぼう。うん。そうだな。ジャンプしよう」とひとり納得している。

「えーっ、ジャンプ?」

「うん、こういうときは、跳んだ方がいいんだよ」

森に押し切られ、佳織はせーので跳び上がった。もともと運動は苦手ではない。思いっきり跳んで着地した。すると、森が抱腹せんばかりに大笑いしている。変な写りになったのかと思い「だめ、消して」と迫る。

「いや、写真はいい感じだよ。ほら」

見せられた写真は確かに悪くない。

「じゃあ、なんで笑ってんのよ」

「もう一回跳んでみて。お願い」

森が手を合わせて頼むので、佳織は仕方なく跳んだ。森がまた笑う。

「佳織ちゃんって、跳ぶとき絶対声出るの?」

「え、出てる?」

「出てるよ。『フハッ』って」

「言ってないよ『フハッ』なんて」

「言ってるって。もう一回跳んでみな」

「フハッ」

「ほら!」

「えー、私こんな感じだったのー」

森は膝から崩れそうになって笑っている。こんな子供みたいなことで笑う人だったんだと、佳織は思う。それは嬉しい発見だった。

静かに高く跳ぼうと頑張るが、何度やっても「フハッ」が出る。森の笑い声が朗らかだ。佳織の眼下で東京の街が弾んでいる。

 

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子