いつの頃からか、車で聴く音楽のボリュームが小さくなった。以前、少なくとも20代の頃までは、車体がきしむくらいの爆音を出すことも珍しくなかった。
果たして俺は音楽を聴いていたのだろうか。音楽どうこうというよりは、耳にトゲを刺したかっただけなのではないか。だとすれば、そのトゲはどこに行ったのだろう。まだ刺さっているのか。溶けてなくなったのか。
森はそんなことを思いながらハンドルを握る。流れる曲に合わせて、指で時々リズムを取るが、これは癖みたいなもので、心が浮き立っているわけではない。
「これってマーヴィン・ゲイ?」
隣に座る佳織が尋ねた。
「うん。そうだよ」
「ちゃんと聴いたことなかったわ。結構前になんかのCMで使われてたよね?」
「うん。そうかもね」
「まだ生きてる?」
「いや、もういない。実の父親に射殺されたんだ」
「え、嘘でしょ?」
「ほんと」
マーヴィン・ゲイを話題にするとき、どうしてもこの悲しい最期が頭をよぎる。事件そのものが不幸だし、彼の遺した美しい音に、意図せぬ暗い影が差すのも不幸だ。しかし、父親との軋轢がなかったら、マーヴィン・ゲイはマーヴィン・ゲイたり得たのか。彼の優しく切ない声を聴くたび、森の心にはいくつもの疑問符が付くのだった。むしろ、その疑問符に耳を澄ましているのかもしれない。
松川という男に、母に会ってくれないかと請われて、森の心は揺れた。なぜだ、と思った。なぜ、会うのか。なぜ、いまなのか。そして母は、なぜ、消えたのか。
母の不在について、子供の森は何度も何度も、数えきれぬほど考えた。しかしわからなかった。少年になった森は、自作の物語を作り、生きることにしたのだった。
森は、強く、シニカルな男であるべきだった。あらゆることを笑い飛ばさなければならなかった。そのために、自分に与えられた「森」という名前を拠り所とするのだった。
目を閉じると、いつもそこは鬱蒼とした森だ。夜明け前だろうか、弱い光が木々の間から差し込むべき瞬間を待っている。地面からは霧が立ち込めている。森は容易に人が立ち入れないほどに深い。水の強く流れる音が途切れない。
森には森の秩序があり、生きるものと死ぬものが、常にせめぎ合っている。朽ちて倒れた木の表面から、新しい芽吹きが起こっている。
やがて昼になり、思いがけず明るい光が降り注ぐ。暖められた空気が立ちのぼっていく。それらが夜を連れておりてくる頃、森は静寂に包まれる。強く、揺るぎない静寂だ。
そうやって何千年、何万年と森は森であり続けた。訪れたこともない「森」が、自分の中にはっきりと見える。森と名付けられた男は、そうやって生きてきた。しかしいま、その「森」が遠い。
東名を降りた車は、しばらく一般道を走った。その後、西湘バイパスという有料道路に入った途端、さえぎるものなく海が広がった。それまでどこに隠れていたのか不思議に思えるほど、いきなりの海だった。江ノ島あたりの灰色の海ではなく、思いのほか青い。
「おお、海だ」
佳織の口から見たままの感想が漏れた。森はそれを聞いて、少し笑う。
「たしかにそう言いたくなる海だね」
口調は穏やかだが、ハンドルを握る森の表情は、いつもより硬い。佳織は、森がこのドライブに自分を誘った真意を、まだ測りかねていた。20数年ぶりに会う母親。そしてその母親は、意思を表明できる容態ではないという。これから起こることが、森にとって不穏でないよう祈る気持ちだった。しかし一方では、森の心の殻が破裂する瞬間を見てみたいという意地悪さも、自分の中に隠し持っていた。
車はバイパス終点を過ぎ、そのまま進んだ。左手に海は変わらないが、右手に突然山が迫ってきた。急に心細くさせるような道だった。山へ山へと入っていく。途中「根府川」という駅を過ぎた。駅前には店らしきものの一軒も見当たらない。カーナビが「この先、狭い道路に入ります。実際の交通規制や道幅に注意して走行してください」と女の声で言う。森は細い道にハンドルを切る。品川ナンバーの車は、ここでは決して歓迎されないのだろうなと、佳織は思う。それぞれの立場。それぞれの意見。答えのない問い。
しばらく蛇行を繰り返し、坂道を登った。「目的地周辺です。音声案内を終了します」とカーナビがまた喋った。丘の上に白い建物が見えた。森の母が暮らすホスピスについたようだった。車がゆっくりと建物に近づく。
あのおかしな春と夏のこと。私忘れないわ。
あの人は毎日のように来てくれたけど、いつも部屋に入ってこないのね。遠くから、寝ている私を見ているだけ。どうしたっていうの。いままでは背中をずっと、何時間でもさすってくれたのに。
ずいぶん長いこと、私はここに寝ている。みんなが話すことは聞こえているけど、私の耳には動物の唸り声みたいにしか届かない。体の大きな園田先生はカバ、看護師の前島さんは痩せたニワトリ。私は人間の言葉を話しているのに、みんなには伝わらないみたい。でもいいわ。
ある日、見慣れない若者が来た。最近のあの人と同じように、ガラスの向こうから私を見ていた。ガラスに手をついて、ときどき顔を伏せたりした。そしていきなり「ドン」とガラスを叩くから、私びっくりした。あの人や園田先生や前島さんもそばにいなかったから、私怖かった。
でもその若者は、私を怖がらせるつもりはないようだった。肩を震わせていた。泣くのを我慢しているみたいだった。
どうしたの?と私は思った。泣きたいなら泣けばいいのに。知らない女の子があとから来て、若者の背中をさすっていた。あの人が私にしてくれるみたいにさすっていた。ものも言わず、ずっとさすっていたわ。さすってくれる人がいるのはいいことよ。だからきっと大丈夫よ。私は若者に向かってそう言ったわ。
それにしてもおかしな春と夏。私忘れないわ。
ここについて来てよかったのかどうか、佳織は結局わからなかった。森の心の奥の奥にあったもの。そこに少しでも触れてしまったこと。森という人間を深く知っているのだと、ともすれば優越感に浸りかねない自分を危惧した。
森の母は、とても小柄だった。もともとそうだったのか、長い闘病で小さくなってしまったのか。薄緑のパジャマ姿でベッドに横たわり、こちらを見ていた。焦点がうつろではあるものの、森の姿が見えているらしいことはわかった。彼女が森のことを認識できたかどうか、素人目には判断できない。園田という恰幅の良い医師は森に「あなたは今日、充子さんに会った。それは確かなことです。また来てください」と静かに言った。
ひかるが引越し先を決めたというので、夜、ワインを携え佳織は隣室を訪ねた。一緒に鰻を食べてから少し日にちが空いていた。会えるのが残りわずかだと思うと、かえって誘えなかったのだ。
「あ、ワインありがとう。けど、今日はちょっとやめとくわ」
ひかるはそう言うと、炭酸水を自分のグラスに注いだ。ひかるの部屋は、以前のまま心地よく散らかっていて、引越し準備に取り掛かっている様子はない。
お互いにここ数日起きたことを、とりとめなく喋った。森の母のことは黙っていようと思っていたのに、話し始めると言葉が次々にこぼれた。森の背中の無防備な振動は、まだ佳織の手にしっかりと残っていた。ひかるは佳織の目をまっすぐ見て、話を聞いていた。そして「森くんはええ人やね」と言った。そう言ってもらえて、佳織は嬉しかった。足元に寄ってきたリキの背をそっと撫でた。初めて吠えられなかった。しばらくリキの体温を感じたあと、
「どこに引越すの?」と佳織は尋ねた。
するとひかるが「見に行こか」と言った。
「見に行くって、いまから?」
「そや」
「え、無理でしょ。明日仕事あるし」
「いけるいける」ひかるは平然と言う。
ふたりはひかるの部屋を出た。佳織は小ぶりなバッグを手にしているが、ひかるは手ぶらだ。
佳織が先に立って階段を下りようとすると、
「あ、ちゃうちゃう。こっちこっち」とひかるが呼び止める。
「え?こっち?」
佳織が振り向くと、ひかるが銀色の鍵を手にして上を指差す。
「屋上。私、屋上に住むねん」
ワンフロア上がっただけなのに、屋上からの眺めは、部屋からのそれとは桁違いだった。周囲に高い建物がないせいで、想像以上に遠くまで見晴らせた。新宿のビル群が遠くで光っている。
「こんなに見晴らしがいいなんて知らなかったなあ」
「ええやろ」
佳織の方が断然長く住んでいるはずなのに、屋上に一軒分の住居スペースがあることなど知らなかった。そしてあとは広大なベランダと呼ぶべき空間だ。ひかるが両手を広げて言う。
「大家さん家族が昔住んではったんやて。お子さんらが独立してからはずっと空けてたみたい。ちょっとガタがきてるけど、これから直していきましょうって。それでな、このベランダを庭みたいにしようと思ってんねん。楽しそうやろ」
「もう、どこ行っちゃうのかと思ったら何ここ。近すぎるんだけど」
佳織は嬉しさを隠すように言った。言いながら目が潤みそうで恥ずかしかった。でも疑問もあった。
「どうしてわざわざ引越すの?」
「空間が欲しいなって」
「空間?」
「私な、赤ちゃんできてん」
「え?」
「いるねん。ここに」ひかるは照れたように笑って、お腹をさわった。
佳織と森の休みが合わさった日、しばらく降り続いていた雨がようやく止んだ。展望台に登ろうという佳織の希望で、ふたりは六本木に来た。雲間から懐かしの青空がのぞいている。
「森くん家ってどの辺?」佳織が訊く。
「あの辺」森が指差す。
「そうなんだ」
「え、わかったの?いまの説明で」
「うん、大体ね」
「やるね」
高いはずの東京タワーを見下ろすというのが、不思議な感じだ。街を眺めながら、ひかるの引越しの顛末を森に伝えた。
「で、佳織ちゃんはオムツ替えの講師になるんだ」
「うん。つい言っちゃったのよ。私、オムツ替えなら姪っ子で慣れてるよって。5,6回しかしたことないんだけど」
佳織は、姪の優奈とは結構仲がいい。密かにラインの交換だってしている。いつか優奈がくれた「私はね、ママみたいじゃなく、佳織ちゃんみたいに生きる!」という文面は、姉には内緒だ。
「あ、そうだ。森くんにも役割あるらしいよ」
「俺も?」
「子供が歩けるようになったら、屋上でキャンプするんだって。森くんキャンプ係ね」
「おお、いいね」
ひかるはひとりで産むつもりのようだった。晴れ晴れとした顔を見ていたら、相手のことはあえて尋ねなくていい気がした。最近知り合ったはずなのに、なぜか大昔から知っているような友だと、佳織は思う。
「東京でキャンプか。最高だね」森が呟いている。
「森くんは、東京好き?」佳織が訊く。
「好きだよ」森は迷わず答えた。
「もちろん気に入らないところはあるよ。道はグチャグチャだし、ビルは統一感ないし、看板は派手で汚いし、まだ言ったほうがいい?でもなんだかんだで好きだ。悪く言われるとちょっと腹立つ。生まれた場所だし。他人に親父の悪口言われる、みたいなもんだよね」
「そう思えるのって、いいね」
東京ってどんな街だろうと佳織は思う。どんな格好でも許されて、24時間いつ目覚めてもよくて、流行が次々に生まれる(そして消える)街。10年もあれば顔がすっかり変わる街。薄情なほど過去を忘れる街。
ニューノーマルもなにも、東京のノーマルはいつだって最新なのではないか。そういうところ、私は好きだ。
「ちょっとそこ立って」森に後ろから呼ばれた。iPhoneを構えている。写真を撮ろうとしているらしい。少し恥ずかしいが、応じる。構図に迷っているのか、森がなかなか撮らない。
「あれだな。跳ぼう。うん。そうだな。ジャンプしよう」とひとり納得している。
「えーっ、ジャンプ?」
「うん、こういうときは、跳んだ方がいいんだよ」
森に押し切られ、佳織はせーので跳び上がった。もともと運動は苦手ではない。思いっきり跳んで着地した。すると、森が抱腹せんばかりに大笑いしている。変な写りになったのかと思い「だめ、消して」と迫る。
「いや、写真はいい感じだよ。ほら」
見せられた写真は確かに悪くない。
「じゃあ、なんで笑ってんのよ」
「もう一回跳んでみて。お願い」
森が手を合わせて頼むので、佳織は仕方なく跳んだ。森がまた笑う。
「佳織ちゃんって、跳ぶとき絶対声出るの?」
「え、出てる?」
「出てるよ。『フハッ』って」
「言ってないよ『フハッ』なんて」
「言ってるって。もう一回跳んでみな」
「フハッ」
「ほら!」
「えー、私こんな感じだったのー」
森は膝から崩れそうになって笑っている。こんな子供みたいなことで笑う人だったんだと、佳織は思う。それは嬉しい発見だった。
静かに高く跳ぼうと頑張るが、何度やっても「フハッ」が出る。森の笑い声が朗らかだ。佳織の眼下で東京の街が弾んでいる。
了
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子