誤送信なんて、森らしくもなかった。佳織がどう思ったかはわからない。東京に長く暮らしていたら、道玄坂がどういうところか知らないわけはない。やましい点がないのに言い訳をするのもおかしいし、本当のことを言うには話が込み入っていた。ただ「ごめん、間違えた」とだけ送り直した。
「L」という名の喫茶店は、90年あまり道玄坂の裏通りに佇んでいる。戦争で一度燃えたらしい。周囲に立ち並ぶラブホテルや風俗店と不思議な調和を保っている。
「名曲喫茶」を謳うこの店は、常にクラシック音楽が大音量で流れている。とても会話が推奨される雰囲気ではないが、小声なら許されるようだ。座席は劇場さながらに、どれもスピーカーの方を向いている。そのため森と相手の男は、向かい合わせではなく、横並びに席についている。
松川というその男は、半袖のワイシャツに紺色のネクタイを締めている。普段の仕事着というよりは、森に会うためにきちんとした格好を心がけた、という風情だ。ぱっと見、実直な役人か何かのような印象。それが人妻と駆け落ちするのだから、人は見かけによらない。しかし、それから25年、その女と別れずにいるところを見ると、やはり相当に実直な男なのかもしれない。
喫茶店から消えた女の話を、喫茶店でするというのも皮肉なものだと、森は思う。しかし、喫茶店以外にこんな話ができる場所を知らないのも事実だった。
2杯のコーヒー。松川の分は口をつけられぬまま、次第に冷めていく。森はほぼ飲み干している。かつて森の父が淹れていたものに近く、酸味よりも苦味が立った深い味わいだった。
初めて会うことになった際に、森がここを選んだ。会うには会うが、すすんで話をする気はないという意思表示もいくらか含まれていた。
母の充子が、寝たきりになっていることを知ったのは、森が自分の店の開店準備に追われていた冬のことだった。
見知らぬ番号からの着信だったが、取引先や施工業者など、初めてのやりとりも多い時期だったので、いぶかしむことなく応答した。
男は事前に何度も練習したような口調で、妙に勢いよく話し始めた。
「私、松川と申します。長年にわたる不義理、お詫びの上にお詫びを重ねましても到底許されるものでないことは承知しております。しかしながら、充子さんの近況をどうしてもお伝えしたいと思いまして…」
母の名前を突然聞かされた森は、それが自分にまつわる話だと気づくのに少し時間がかかった。頭の整理がつき始めても、思い出すのは母の顔ではなく、父だった。その10ヶ月前に、森は父を見送った。亡くなる数日前、父は初めて詫びた。いつも柳の枝みたいに飄々として、それでいて巨木の幹のように強くもあった父が、
「母親を失わせてすまなかった」と森に告げ、目を伏せた。
松川の話を聞いているうち、そのときの父の姿が、森のまぶたをよぎった。病室でもそうしたように、瞬間的に拳を握りしめた。しかし、今度もまた、それを打ちつける先が見当たらなかった。森は結局、その松川と名乗る男の、会って話したいという申し出を受け入れた。
チェンバロの音色が、大人の背丈ほどもあるスピーカーから迫ってくる。音の輪郭が手でつかめそうなほどだ。タイトルは知らない。バッハか、ヘンデルか。
森は小学校の音楽室を思い出す。壁のいたるところに、作曲家の肖像画とプロフィールが貼ってあった。バッハに「音楽の父」、ヘンデルには「音楽の母」というキャッチフレーズが添えられていた。母という文字が見えると、少し気に障った。ヘンデルを憎みそうになった。ついでに言えば、森はそれから長いことヘンデルを女性だと思い込んでいた。
松川は「今週もまだ、ガラス越しにしか会えませんでした」と小さな声で言った。森の母、充子はこの3年余り、海辺のホスピスに居るのだった。脳幹出血で倒れて以来闘病中だが、意思の疎通はままならないとのことだ。
「でも、近いうちに触れ合っての面会ができるようにしたいと、担当のスタッフの方が…」
触れ合って、という表現が露骨だったと思ったのか、松川は言葉を途切らせた。50は過ぎているだろうに、純朴さを残すのがおかしな男だ。
「それって、感染を恐れていたら、会える時間がなくなるだけだってことですか?要するに、長くない?」
森は静かに尋ねた。自分でも冷ややかに感じるほど、静かな声だった。
「…それは、なんとも言えません。この3年の暮らしは、明日にでも終わるようでもあり、永久に続くようでもあったので…」
松川は絞り出すように言った。横目には、泣いているようにも見える。
自分の母親のことを、自分よりはるかに知る男がいて、その男が、隣で泣いている。母親をいちばん愛した男が自分の父でないとするならば、自分はどういう存在なのか。ついそんなことを思うが、おいおい、30を過ぎた大人が何を青臭いことを、と森は自分を戒める。愛は無数にある。順位付けできないことくらい、お前だって知ってるだろ。
いや、俺はあの頃、子供だった。世界に愛は一つしかないのだと思った。そしてその愛は自分にこそ注がれるべきものだった。しかしそれは叶わなかった。俺は母を忘れた者として生きた。馬鹿な。忘れるものか。俺はただただ無力だったのだ。無力ゆえ、母のよすがを辿ることすら思いつかなかったのだ。
「もし、そちらさえよろしければ、一度、会ってみませんか。私がこういうことを言うのもおかしいのかもしれませんが…」
松川が、森にそう言った。森はどう応じていいか、わからなかった。混乱していた。子供の頃となんら変わらない。いまも無力だった。もはや拳を固めることすらできなかった。バッハだかヘンデルだかが、耳からすーっと遠ざかった。
「『つのもの』の時期やな」
と、ひかるが言うのを、佳織は「酢の物」と聞き間違えた。確かにさっぱりした酸味は夏にいいだろう。
佳織とひかるは、週に二度ばかり、部屋を行き来するようになっていた。そしてビールとワインを飲んだ。自分にとっての適量が、お互い同じくらいなのがよかった。
今日はとりわけひかるに会いたい気分だった。森に自分の知らない一面があることなど、当たり前だと頭ではわかっているが、ひとりでいると面白くない。
「酢の物って、タコとかキュウリとか?」と返すと、ひかるは不思議そうな顔をする。
「キュウリが『つの字』やとしたら、だいぶ曲がってるなあ」
「つの字?」「そう、『つ』」
ひかるによると「つのもの」とは即ち、鰻や穴子、ハモなどを指すらしい。それらの細長い魚にとって、いちばん生き生きして見える状態が、平仮名の「つ」の形だから「つのもの」。佳織はそんな言い方をついぞ聞いたことがなかった。もしや、京都の真ん中だけに伝わる言い回しなのか。佳織は軽く緊張しつつ、ネットで検索した。
「『つのもの』なんてどこにも出てこないよ」
どこか安心したように佳織が言うと、ひかるは、
「ネットが全てやと思ったら大間違いやで」とわざと低い声を出す。ネットを駆使する人間にそう言われると、妙な説得力がある。
「ま、東京でハモってことはないから、鰻やな。鰻食べよ」
テイクアウトでも一串2,500円するだけあって、おいしかった。夏に鰻を食べるなんて、実にノーマルだ。佳織は、そんな普通の振る舞いを心地よく感じていることに気づき、我ながら意外に思った。
いままで通りに生きることはもう許されない、という圧力は、ボディブローのように心を疲れさせていたようだ。
「山椒かけていい?」
「うん、思いっきりいこ」
「鰻って、おいしいね」
「ほんまやなあ」
ひかるの口調にはいつも救われる。そう思っていると、
「私な、引っ越そうかと思ってんねん」と不意に切り出され、佳織はうろたえる。
「え、え、なんで。なんでよ」
「確かに仕事はどこででもできるし、ここは好きやし、佳織が隣に住んでるし、毎日の生活は楽しいんやで」
ひかるはグラスを置いて、佳織に向き直った。
「けどな、ここしばらくの東京見てたら、どうにもならんで、これ。なにも脱出しようとか、見限ろうとか、そういうことと違うねん。なんて言うんやろ、狭いねん、東京。みんなが縮こまってキューっとなってて、前より狭いねん。そもそも私なんか『そこにいなさい』って言われへんためにどう生きようか、そればっかり考えてきたような人間やんか」
「どこ行くの」
「それはこれから考える」
「京都とか?」
「それもあるな」
「…さびしい」
「明日すぐどうこういう話ではないよ。そやけど、そろそろ自分の人生取り戻さんとあかんよね」
自分の人生。そんな言葉をひかるはサラリと言ってのけた。そんなセリフを気負いなく言える人を佳織は初めて見た。ひかるに会うたび、敷島雄太とその後どうかなったのか、少し気になっていたが、そんなことはもう訊かないと決めた。
佳織とひかるは、その晩いつもより少し多めに飲んだ。
7月に入り、佳織の会社では個人客対応のネット通販が、当初の予想よりも順調に推移していた。佳織が中心となったプロジェクトだった。会社全体の業績はまだまだ厳しい見通しだったが「これは新たな柱になり得るよ」と上司達からも声を掛けられた。
「はい。頑張ります」まだ笑顔を作る余裕はあった。しかし、仕事に没頭していても、以前は感じなかった不安が、背中越しにこちらを見ているような気がするのだった。
森と個人的に会うようになってから、以前ほどはコーヒースタンドに顔を出していない。久しぶりに午後の休憩時間に訪ねてみることにした。森はいつものように、丁寧に仕事をしていた。
「道玄坂ってなに?」わざと冗談めかしてぶつけてみた。
「おじさんとデートだよ」森は表情を変えずに答えた。
「へえ、おじさんってどんな話するの」
「過去への悔恨、かな」
「なかなか文学的なデートなんだね」
「そりゃそうだよ。名曲喫茶なんだから」
「今度私も行きたいな」
「いいよ。でもその前に一緒に来てほしいところがあるんだけど…」
「どこ?」
「海」
「いいね」
「いるらしいんだよ。そこに」
「誰が?」
「母親。大磯の先のホスピスに」
なぜこの女にここまで明かしているのか、と森は思った。俺はなぜ佳織にすがっているのだろう。軽口にくるんで、俺はなにに怯えているのだろう。
森は佳織の手を握っていた。森の手は常より、熱をもっていた。
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子