どのくらい天井を見上げていただろうか。だんだん芝居掛かった動きに思えてきて、佳織は諦めて靴を脱いだ。
人の一生に、高校時代を思い出す節目があるなんて聞いたことはないが、もしあるとしたらいまなのかもしれない。
昔の男に偶然会った経験はゼロではない。恋人へのプレゼントを買おうと、ひとり入った洋服店で、昔の男に接客されたことがあった。「その方の体型は?」と訊かれ、「あなたと大体同じ」と答えたときのお互いの苦笑を忘れられない。
不意打ちの方がまだマシだ。佳織はそう思った。予告があるとかえってややこしい。しかもオンライン飲み会、ましてや自分は飛び入り参加である。どんな顔して画面に映ればいいのか。やっぱり断ろうか、そう考えたところで、玄関のドアが軽快にノックされた。まるで「ひかるです」と言っているように聞こえた。覗き穴から見てみると、やはりそうだった。ドアを開けると、野見山ひかるはノートパソコンとケーブルを抱えている。
「Wi-Fiきてる?」ひかるは佳織に尋ねた。
「きてるけど」
ひかるは首だけ伸ばしてざっと佳織の部屋の中を眺めると、
「あ、やっぱりこっちやな。ものすごい綺麗な部屋やん。同じ間取りとは思えへんな。私のとこではあかんわ。人を寄せ付けへん雰囲気が出てしもてるというか。仕事やったらええねんけど」と言った。
「あ、え、ちょっと待って。ここを映すってこと?」
「あかん?ほなバーチャル背景?」
「いや、そういうことでもなくって」
「お酒は結構あるのよ。貰い物やけど。ワインにしよか。上等なやつ」
ひかるはパソコンのセッティングを始めた。佳織は肩をすくめるしかない。
「敷島くんとはいつ以来なん?」ひかるが訊く。
「いつって、それこそ高校以来だと思うけど。ひかるさんは、どういう知り合い?」
「仕事」食い気味に短い答え。
「教育系なの?」
「IT系」
ひかるは敷島雄太を憎からず思ってるな、と佳織は直感した。そして、だからなんなんだ、と自分に対して思った。
敷島雄太は、校内でちょっとした有名人だった。
ファッションスナップがどこかに載ったとか、モデル事務所にスカウトされたとか、映画のオファーがあったけど断ったとか、華々しい(ちょっと胡散臭い)噂が絶えない人物だった。その挙動に、男女問わず自然と注目が集まる存在。
佳織が2年生の頃だった。3年生の雄太が、木屋町のクラブでイベントを主催した。内部進学を早々に決め、雄太は時間が有り余っていた。
当時佳織と仲がよかったひとりが雄太に入れ込んでおり、そのイベントには彼女の付き添いのつもりで足を運んだのだった。爆音。漂う煙。甘い酒。薄暗いフロアは、佳織を一瞬で捉えた(言い出しっぺの友人は怖気付いていた)。
背伸びと興奮がごちゃ混ぜになって、テンションが変になっている者たちの中で、佳織は妙に堂々としていた。その様子が雄太の目を引いたのか、DJブースからおりた彼が近寄ってきたのだった。
「2年か?」と聞かれ「うん」と答えた。「はい」ではなく「うん」と言えた自分が気持ちよかった。
「こういうとこ、よく来んの?」
「まあ、ときどき」
「そうか。連絡先教えてくれよ」雄太はタバコに火をつけながら、佳織に迫った。佳織はまだ新しい携帯をカチャリと開き、電話番号とメールアドレスを教えたのだった。
「佳織の会社って生ハム屋さんやろ。丸ごと1本どーんとあったりせえへんの?」
リビングのひかるがカメラの画角調整をしながら、キッチンの佳織に尋ねる。
「ないよ。ひとり暮らしでそれはおかしいでしょ」
「そうか。残念やな」
代わりに佳織は、プロシュットのスライスと、白カビのサラミを用意した。
ひかるが「上等な」ワインの栓を抜いてから、時計を見た。
「あ、そろそろ時間や」
佳織は、柄にもなく緊張を覚えた。そんな自分をほぐすように、
「さあ、雄太くんはどんな男になってるのかな」と独りごちた。
時折ザラつく画面の向こうに、敷島雄太はいた。高校生の時より、気持ちふっくらしたように思えるが、大きな目や、すっきりとした鼻梁(びりょう)がもたらすハンサムぶりは健在だった。シンプルだが上質とわかる黒いTシャツ姿。体を預ける椅子から背後の壁までが遠い。随分広い部屋のようだ。壁面には、大きな抽象画さえ掛かっている。
佳織のかすかな緊張をよそに、雄太はリラックスした様子でグラスを傾ける。快活に話し、豪快に笑い、大いに飲んでいた。しかし、佳織に視線を留める様子はなかった。そのオンライン飲み会は「敷島会(ディスタンスバージョン)」と称され、実に12人もの参加者があったのだった。
ひかるは、何人か見知った顔があるようで、マイペースに歓談していた。雄太は、ひかるには「やっと参加してくれましたねえ。待ってましたよ」と大きな声で語りかけたが、佳織には「お友達もありがとうございます。敷島です」と言うだけだった。
雄太は自分に気づいていない。佳織はソファーと太ももの間に、心地の悪い汗を感じていた。
思えば18年前も、身体とソファーの間に汗を感じたのだった。
連絡先を交換した直後、雄太はクラブのバックヤードに、佳織を誘導した。無人の小部屋には、ステッカーだらけのスチール製ロッカーと、大きなソファーがあった。
「こういう場所も、初めてじゃないよな」
雄太はタバコをくわえたまま言った。ここに通された時点で、佳織はこれから何が起こるかを悟った。
「うん。あるよ」佳織は嘘をついた。場所にかかわらず、初めてだった。子供扱いされたくない一心だったのか、見栄を張らなければ恐怖に変わりそうだったのか、それとも何かが足りぬ恋をしていたのか、佳織は嘘をついた。
こんな形は予想外だったが、ではどのような形なら満足なのか、自分でもわからなかった。
雄太は佳織の上で、声にならない息を徐々に荒げた。
佳織は岬の突端に裸で立っているような気分だった。そこには風が吹き荒れ、低い草を右へ左へと乱していた。私はこれから度々、このような強風に見舞われるのだろうか。そんなことを思ううち、雄太は不意に佳織から離れた。そして手早く服を着た。
結局、お互いの携帯電話に連絡を取り合うことは、一度もなかった。
パソコン画面の中で、雄太が熱弁を振るっている。
「リモートワークが当たり前になっちゃったから、人と人とが全然会えないよね。でも、それでいいのかなあ?僕らはリモートの先を見つめなきゃいけないんじゃないかな」
人と人とが全然会えない?都心の鉄道は、すでに満員電車の様相を取り戻している。きっと敷島雄太は電車に乗らないのだろう。
人に会うなと言われても、人に会わざるを得ない者がいる一方で、会わずに済んでいる者は、早くも人に会いたがっていた。
雄太が、実在の人物なのかわからなくなってきた。それなのに、長らく実在を疑っていたひかるが、確かに佳織の隣にいた。
ひかるが雄太のことをこれ以上好きにならなければいいな、と思った。大きなお世話なのは佳織も承知していた。
佳織は初めて、あのクラブのバックヤードでの自分を憐れんだ。自分を憐れむなんて、ダサい女のやることだと思っていた。でも私は、私をもっと可愛がってやるべきだったのかもしれない。
佳織はマイクをミュートすると、「ねえ、ここからは二人で飲まない?」とひかるに告げた。軽く涙声みたいになっている自分に驚いた。
「そやな。そうしよ」とひかるは明るく応えた。
雨の渋谷。コーヒースタンドに、相変わらず佐々木森の姿がない。かれこれ1週間以上経った。
客足が途切れたタイミングで、佳織は意を決してバイト風の若者に声をかけた。佐々木森のことを「佐々木さん」と呼ぶべきか「森さん」と呼ぶべきか一瞬迷い、後者を選択した。
「森さんは、お元気ですか?」
髪を明るく染めた若者は「もしかして、佳織さんですか?」と質問を返してきた。佳織は黙ってうなずく。
「森さんから言われてたんですよ。心配している人が店に来るかもしれない、そうしたら安心するように伝えろって。いや、それだけじゃわかんないですよ、名前教えてくださいって言ったら、佳織さんだって。だから佳織さん、安心してください」
青年は真面目くさった顔でそう言ったが、はいわかりました、安心します、と引き取るわけにもいかない。
「えっと、それはつまり、森さんに何かあったってことですよね?」
「まあ、あったと言えばあったってことですかねえ」青年の歯切れが悪い。自分でも気持ちが悪かったらしく、
「ほら、森さんって元々歌舞伎町にいた人じゃないですか。その関係で色々ゴタゴタしてて」
と声を潜めながらもそう続けた。
歌舞伎町?佳織には何のことかわからなかったが、話を中断させないよう、調子を合わせた。若者は放っておくと勝手に喋った。
「ホストクラブって営業自粛とか言いながら、全然休んでなかったらしいんですよね。でも売上が厳しいから、常連客にいつも以上に無理させる。客も結局は歌舞伎町で働いてる女の子だから、いまは当然金がない。ツケが膨らむ。回収できない。ホストのせいになる。で、飛ぶしかなくなる。そういう寝場所もないようなホストが大量発生してるらしくて。ほら、森さん優しいから、ねえ」
少し話しすぎたと思ったのか、若者は
「俺から聞いたって言わないでくださいね。まあ俺しかいないけど」と付け加えた。
会社では、先輩の男性社員が「歌舞伎町だけ城壁で囲めばいいんだよな」「山手線も新宿は通過するとか」などと軽口を叩き合っていた。そのうちひとりは、フェイスブックのアイコンに「最前線で戦う人に感謝を」というフレームをつけていた。普段の佳織なら気に留めなかったが、この日は彼らがひどく軽薄に思えた。
しかし、そういう自分はどうなのか。街で見かけただけの男。その一端が明らかになるごとに一喜一憂している。
森は元々歌舞伎町にいたという。夜に森のことを考えた。そして眠れなくなった。彼のことは何も知らない。それだけに身勝手な思慕が壊れた蛇口のように溢れた。
ホストだったのだろうか。そう思うたび、佳織の腰は半分ひけた。いかなる感情がそうさせるのかを突き詰めようにも、佳織の心に宿る森は近づいたり遠ざかったりを繰り返すのだった。
佳織は、森がいなくても毎日コーヒーを買った。気を遣ってか、若者があれこれ話しかけてくれた。
そしてさらに1週間が経った朝、店頭に立つ森の姿を見つけた。一瞬の無音に佳織は包まれる。そして、ゆっくりと森に近づいた。
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子