<まさかキムタクと戦えというのか>迫られると逃げたくなる僕の悪い癖が顔を出しそうになるのを、なんとか抑えた。今回誘ったのは俺だ(第4話)
呼び出し音が聞こえるまでの、1秒ほどの空白の時間に、胸の内がぞぞめく。「引き返すなら今だ」という気持ちと「やれ、いってしまえ」という気持ち。酔いを味方につけた後者が勝った。
島尾さんはすぐ電話に出た。わずかワンコールの出来事だった。
最近の若い人は、とにかく電話が苦手だという話を聞く。それに比べて僕たちと来たら。
「もしもし」
島尾さんは、あたかもこの電話を予期していたかのような、落ち着いた声だった。釣りからの帰り、車内で島尾さんが漏らした「私たち、急いだ方がいいと思うんです」という一言が蘇る。それが僕にいらぬ勇気を与えてしまった。
「島尾さん、こんばんは。ご機嫌いかがですか?」と、なんの用事もないことを、衒(てら)いなく明かした。
「いい1日でしたよ。工藤さんはどうでしたか?」
元カノと飲んでました、とは言いにくい。「なんだかもう春みたいですね。外、気持ちいいですよ」と地球の話をした。実際、思いがけずやわらかな空気が首元を撫でた。
「お酒飲んでたんですか?」
咎めるような口調ではなかったが、僕はちょっとだけ我に帰った。
「約20年、お酒は毎日欠かしません」とはぐらかした。
「ふふっ」と島尾さんは一応笑ってくれた。
さて、どうしたものか。僕は明日休みだ。思い切って飲みに誘うか?いくらなんでも遅いか。時計を見ると、1時近い。改めて考えるまでもなく、僕は非常識な時間に電話をかけている。
「今どちらなんですか?」
と、島尾さんが僕に聞いた。
「えっと今は中目黒です」
「エグザイル」
「はい?」
「中目黒といえばエグザイルですよね」
確かに数年前にエグザイルがでっかいビルを建ててから、中目黒がじわじわとエグザイルの街になりつつある。住んでいる人は複雑な気持ちだろうなあ、と勝手に思っている。
「好きなんですか?エグザイル」
「いえ、全然」
「よかった」
「よかったですか?」
「いやまあ、なんとなく」キムタクもエグザイルも好きなんじゃ、ちょっとついていけない。
「30分待っててください。私、行きますから」
島尾さんが、唐突に、しかしきっぱりと言った。
「え、ほんとですか?」
僕は、不意を突かれて、思わず高い声を出した。着いたら連絡します、と言われて電話が切れてからも、しばらく呆然としていた。
迫られると逃げたくなる僕の悪い癖が顔を出しそうになるのを、なんとか抑えた。総合的に見て、今回誘ったのは俺だ、と自分に言い聞かせた。
酔いがすっかりさめた気がした。
本当に30分きっかりで、島尾さんは現れた。
ついさっき真澄のタクシーを見送ったと思ったら、今度は島尾さんのタクシーを出迎える。まるで名うての遊び人のようだった。
島尾さんは、アメリカの古着みたいに大きなフリースジャケットに、特にトレンド感のないデニムパンツ姿だった。明らかに気の抜けた格好だが、美人のこういうのに男は弱い。
「大丈夫ですか。こんな時間に」と一応弁解めいたことを言うが、
「大丈夫ですよ。どんな時間でも」と、にこやかに返された。あまりに好意的な言葉に、先ほどまでの逃げ腰はどこへやら、天にも昇る気持ちになった。
まずはどこかに入ろうと、程よい店を探すが、僕の知っている店はどこも満席か閉まった後だった。仕方なく知らないドアを開けると、ガタイのいい若者が上半身裸で踊っていたので、すぐ閉めた。今はこういうんじゃない。
途方に暮れかけていると、島尾さんが口を開いた。
「工藤さん、カラオケお好きですか?」
「カラオケは…好きです」
一瞬言い淀んだ。かっこいい男はカラオケを嫌うイメージがある。でも残念なことに、僕はカラオケがまあまあ好きだ。
「島尾さん、歌うんですか」少し意外だった。
「はい。人並みに」
カラオケという俗っぽい提案にいささかの迷いはあったものの、いつまでも外を歩いているわけにもいかない。それに、僕と島尾さんは同い年。カラオケの大敵である世代間ギャップもないはずだ。
僕は昔行ったことのあるビッグエコーの方角に見当をつけて、歩き始めた。
少し見ないうちに、店がエグザイル仕様になっていて驚いた。外観は巨大な写真パネルで覆われ、パッと見、カラオケ屋か何かわからない。ファンらしい若い子らが写真を撮っていく。受付では「すみませんが只今、コラボルームの方が満室になってまして、通常のお部屋でもよろしければ…」と言われたので、食い気味に「通常でいいです」と返事をした。通常でいいよ。なんだよコラボルームって。僕はファン心理というやつがよくわからない。と思ってからハッとした。
島尾さんとカラオケ。いよいよ木村拓哉が牙をむくかもしれない。僕に対処できるのか、どうにも自信がない。
通された部屋は広く、詰めれば10人ほども入れそうだった。大きなコの字型のソファーに、並んで座るのも変なので、ひとまず向かい合った。対戦といった趣だ。
午前3時近く、2時間制(延長可)の戦いが始まった。僕はまず、山下達郎の「高気圧ガール」で高音の伸びを確かめた。もはやルーティンとも言える、僕のいつものやり方だ。島尾さんの前で緊張したのか、普段より声が裏返ってしまった。
対する島尾さんがぶつけてきたのは、なんと竹内まりやの「駅」だった。選曲の妙もさることながら、歌がうまいことに驚いた。音程が外れないのは当然として、強弱、上下も自在で、ほとんど圧倒された。色々想像を上回る人だ。
その後、安全地帯「悲しみにさよなら」、杏里「悲しみがとまらない」と対決が続いた。
説明しておくべきだろうか。僕たちがここまで歌っている曲は、どれもこれも古い。ほとんどが未就学の頃の曲だ。これは僕たちが偏屈なのではなくて(僕は多少偏屈だが)、カラオケってそういうところがあるのだと思う。
最新ヒットナンバーを堂々と歌える人もいるかもしれないが、それはどこか恥ずかしい。はたまた、青春ど真ん中だった時代の、心のヒットアルバムをさらけ出すのも、それはそれで勇気がいる。裸を見せるようなものだ。
結果的に、追体験で知ったような名曲集でお茶を濁しているわけである。そのあたりの機微も相通ずるようで、僕はますます島尾さんに心惹かれた。
「なんか、楽しいですね」
島尾さんは僕に笑顔を向けた。フリースジャケットを脱ぐと、これも古着のような白いスウェットシャツで、どこかの大学名がプリントしてある。遠い昔、こういうのを着た女の子を好きだった気がする。確かに、なんか楽しい。極寒の海釣りが、遠い日のことに思えた。
気分がほぐれるにつれ、お互い少しずつ手の内を見せ合った。米米CLUB「浪漫飛行」、プリンセスプリンセス「ジュリアン」、これらは自分のお小遣いでCDを買った曲だ。
「恥ずかしー」「ほんと恥ずかしー」と言い合いながら歌った。
そして僕が、フリッパーズ・ギター「カメラ!カメラ!カメラ!」を、島尾さんがピチカート・ファイブ「東京は夜の七時」を歌ったところで、懐かしさが最高潮に達した。
「いやあ、最高ですね島尾さん」
「工藤さんも素敵ですよ」
最高に素敵な僕たちは、休憩なしで歌っていたので少し疲れてきた。一息ついて飲み物を追加で取った。
「島尾さん、まさか明日仕事じゃないですよね」冗談半分に聞いてみると、
「仕事ですよ」と島尾さんは、さらりと言った。
「えっ!?嘘でしょ」
「ほんとです」
「いいんですか。東京は…夜の、どころか朝の4時ですよ」
「大丈夫です。明日は遅番なんで」
いくら遅番と言ったって、この人は眠らないのか。
次にスタンバイしていた、すかんち「恋のマジックポーション」を思わず削除した。
「あっ、どうして消すんですか?聞きたかったな、ローリー」と島尾さんが残念がった。
どうもこうも、罪悪感がふくらんだ(そしてカラオケ後の勝手な展望がしぼんだ)からだ。
「じゃあ代わりにこれ歌ってくださいよ」
島尾さんがタッチパネルを操って、曲を送信した。何だろうと思って待っていると、山崎まさよし「セロリ」が始まった。
「セロリ」。歌ったことはないが、多分歌える。山崎まさよしは僕も好きだ。
でもイントロを聞く僕の頭に浮かぶのは、山崎まさよしの顔ではなく、椅子に浅く腰掛け、アコースティックギターを爪弾くキムタクの姿だった。
喉の奥が張り付きそうに乾き始めた。
文/大澤慎吾