同期入社の川島さんからラインが入った。
「夜にごめんね。遠藤のところの相田さん、もしかしてやばいことになってるかも。明日話せる?」
「了解。じゃあお昼に」と咄嗟に返信をする。素っ気無いのは慌てていたせいだ。
私はその時、フェニックス純にメイクをされている真っ最中だった。酔いも手伝って、いい気分。
そんなタイミングでいきなり「相田奏がやばい」と言われても、対応できない。川島さんはつまらない噂話をするタイプではないところが、少し気がかりだけど。
されるがままに20分後、鏡を見た。驚きと爆笑が同時に襲ってくる。
これが私?こういう人、夜のバンコクで見たことある。濃いよフェニ純、筆使いが濃い。「俺、手先は器用なんですよ。美術ずっと5でしたし」本人としては納得の出来栄えらしい。
「うん、いい!これからはこれでいきましょう!道具とかも持ってないでしょ?とりあえず眉まわり、ペンシルとブラシ差しあげますよ」
使いかけをくれるという。衝動と瞬発力だけで生きているような人だと思った。仁とは何から何まで違う。
上機嫌のフェニックス純は「お疲れっす!遠藤さんやっぱりめっちゃ綺麗ですよ!」と言い残し、京王線方面に消えた。
彼が私の頬に触れた。私の目を見つめた。綺麗って言われた。気分はなかなか静まりそうもない。
次の日、ベトナム料理店で私と川島さんはフォーを待っている。頬杖をつく川島さんの手を見るともなく見る。彼女はネイルを欠かさない。指によって星が付いていたり、ラインが入っていたり、ずいぶん凝っている。
不意に川島さんが「あれ?なんか遠藤、感じ変わったよね。ていうか変えたよね」と言い出した。
さすが同期。よく見てる。
「そう?変わった?」なんてとぼけたが、内心嬉しい。
「ちょっとなになに。綺麗にしてんじゃん。あんた元々つくりがいいからずるいよね」
「ずるいって何よ」
早起きして、眉を整えてみたのだ。私にしては一大変化だ。少々恥ずかしくなり、話題を変える。
「で、昨日のラインだけど…」
「うん、それね。相田って、実際どんな子なの?」
「優秀だよ。感じもいいし、ロケもスムーズだし。あと、とにかく映像の編集がうまい」
私は少しばかり本心以上に相田奏を褒めた。
「そう。その編集なんだけどね。山下にやらせてるって噂があるのよ」
川島さんの話はにわかには信じがたいものだった。
うちの会社に山下というディレクターがいる。歳は35くらい。切れ者として真っ先に名が挙がるのが彼だ。早くに結婚していて子供が2人いる。見た目も悪くない。
そんな山下くんに、相田奏が自分のVTR編集を丸投げしているというのだ。
「まあ浮気だけなら勝手にすればってことなんだけどね、編集をやらせてるってのはまずいでしょ」と川島さんは溜息をついた。
人が作った映像を自分の名前で世の中に出すなんて、これが本当だとしたら、この業界にいる資格はない。
誰かに助言を求めるにしても、最終的にはディレクターが自分ひとりの手でVTRを繋いでいくものだ。少なくとも私はそう教えられた。
「昔は業務用みたいなパソコンでVTR編集してたけどさ、今はノートパソコンでも十分性能がいいじゃん。だから最近の子って会社じゃなくて、家に帰ったって作業できるのよね。実際、他の人にやらせても目は届かないよね」
「誰かが見たの?」
「先週の金曜、そこのスタバで山下がパソコン開いてるところを、たまたまうちのADが通ったのね。編集画面がちらっと見えたらしいんだけど、プロレスの映像だったって」
先週の金曜といえば、私が夜にVTRチェックした日だ。相田奏の妙にうまい編集が頭に甦った。これといってダメ出しの余地のない仕上がり。それでいてどこか物足りなく感じたのは、当事者ではない山下の手による編集だったからか。
「若い子たちが何人か騒いでるみたい。枕営業ならぬ枕編集じゃないかって。あの子目立つから。なんにせよ気が滅入る話よね」
会社では、奏の姿が目に入る。
涼しげな切れ長の目も、さらさらの黒髪も、デニムが異常に似合う脚も、私は好きだった。今はあまり見たくない。なんだか気に障る。
彼女の担当分の放送日が近づいていた。
仁に連絡した。彼も彼でここしばらく立て込んでいて、久しぶりに会った。外で軽く食べて、仁の家に行く。
リビングに入ると、ソファーが消えていた。もともと一人暮らしにしては広い部屋が、ますます間延びした印象になっていた。
「えっ?どうしたのソファー」
「あれ、やっぱり白すぎたでしょ。うちの会社に欲しいって人がいて、あげました。運ぶの大変だったよ」
確かに、座るのに多少気が引けるほど、真っ白なレザーのソファーだった。
そういう風に仁に言ったこともある。
でも、一言相談とかないんだ。これからはどこに座るのよ。私の軽い不機嫌に気づく様子はない。
「誰にあげたの?時々飲みに行く人?」」
「いや、君の知らない後輩。引っ越したからソファーが欲しかったんだって」
「仲良しなのね」思わずとげとげしくなる口調に、仁は目を細めてこちらを一瞥するが、何も言わない。
相田奏の一件を相談したかった。こんな時に限ってソファーがない。
仁は事務机でパソコンを開き、私に背を向けてメールをチェックし始めた。夕食後の時間は意外と連絡が活発になる。
私は部屋の隅からダイニングチェアを運んできて座る。
仁がパタンとパソコンを閉じ、キャスター付きの椅子を回転させて私に向き直った。メガネの奥の目は静けさを取り戻していて、私の言葉を促すように思えた。
「枕なんとかっていうのはよくないね」
私の話を聞き終えた仁はまずこう言った。
「ほんとにやってるかどうかはわからないけど」
「いや、言っている連中が、だよ。イベントにして楽しんでるよね。自分たちに実害ないから」
「実害ないかな」
「ないよ。自分の苦労を馬鹿にされた気がしてるだけで。むしろVTRのクオリティは高いんでしょ」
「でもなんだかつまんない」
「君が、このVTRは上手いだけでつまらない、と思うのなら、それをちゃんと彼女に伝えるしかないんじゃないのかな。作り手の熱が欲しいよって。それが君の仕事だと思う」
仁は何も言わずただ抱きしめたりはしない。いつも本当のことを言う。本当のことなんて聞きたくないって時でも言う。でも結局私はそういう仁が好きなのだ。
放送まで残り2日。グズグズする私に向かって、当の相田奏が珍しく慌てた様子で駆け寄ってきた。
「マリさん。大変なことになっちゃいました」
これ見てください、と差し出されたスマホにはニュース記事が表示されていた。その見出しには、
「プロレス団体の資金持ち逃げ レスラー逮捕」
所属するプロレス団体の運営資金を不正に持ち出したとして、警視庁立川署はレスラーの鳥越純容疑者(38)を逮捕…。鳥越純ってフェニックス純じゃん!
え?えええええーっ!何してんのあの人。確かに馬鹿っぽかったけど、持ち逃げとはまたストレートな。
「どうしましょう」奏もさすがに不安げだ。
「んー、とにかく各所に連絡だね。相田さんは団体とやりとりしてみて。私は局に連絡するから」
枕編集とか、彼の指の感触とか、いっさいがっさい吹き飛ばしてフェニックス純は去った。密着VTRは当然お蔵入りだ。穴埋めのため、スケジュールがどんどん前倒しになった。
この稀に見るバタバタの数日間をいっそ笑ってもらおうと、仁にラインで報告する。ところが、半日近く経っても、既読がつかない。いつもの仁らしくない。すれ違いが多い分、かえってラインの反応は早い。少し不安が湧くが、まだ見て見ぬ振りが利く。
夜にもう一通入れてみた。これも開かない。仕事中なら悪いなと思いつつ、電話をしてみる。つながらない。
いつになく不安が高まる。
思い切って家を訪ねる。合鍵は持っている。もしかして寝てたりして、と期待しながら中に入るが、姿はない。知らない部屋みたいにシンとしている。
そのまま朝まで過ごしたが、彼は帰ってこなかった。
仁が前触れなく姿を消した。
文/大澤慎吾 写真/塚田亮平