みなさん、こんにちは。
大竹稽がお送りする「禅の美容室」。
猛暑もひと段落し、少しは過ごしやすくなりましたね。
さて、今月と来月は、静岡県浜松市にあります龍雲寺のご住職、木宮和尚のお話を紹介します。
木宮和尚は「お寺での婚活『吉縁会』」仕掛け人としても有名。さて、どんな心の話になっていくでしょう。
おさいせん泥棒。
ある日、木宮和尚はおさいせん泥棒を捕まえました。以前から被害にあっていたこともあり、カメラを設置。檀家さんたちや庭師さんたちも目を光らせている中、うかうかとやってきて「悪さ」をしてのけた泥棒。カメラに何度も犯行を押さえられています。もはや言い逃れはできません。
さて、おさいせん泥棒をしてしまうのって、みなさんはどんな人間と思われますか?
貧しいから?親との確執があったから?孤独だから?
木宮和尚は、警察に連れていかれる前に、この泥棒と話をすることができたそうです。
彼はこのように泥棒になって理由を伝えたそうです。
「気づいたらやっていた」
悪いこと・楽なことには慣れてしまう。
「『気づいたらやっていた』と聞いて、最初は驚きましたが心というのはそういうものだと知ることができました。心は悪いことにも楽なことにも、慣れてしまうのです」
ふむふむ。私にも身に覚えがあります。もちろん、泥棒とかいうレベルの犯罪行為ではないのですが、みなさんはいかがですか?
「たとえば、クツをそろえないこと。最初はただ怠けてしていたことが、習慣になってしまうと、きたない玄関でもなにも感じられなくなります。あいさつをしないこともそう。パワハラやいじめもそうなのです」
心の美は反省から。
「守るべきことがあったとしましょう。しかし、なにがあってもそれを守れる人はいないのです。人間とは、守るべきことを破ってしまうものなのです」
仏教には戒律というものがあります。律は、「〜してはいけない」こと。禁止項目です。ですから、これを破ったら罰が与えられます。いっぽう、戒とは「〜しないようにしましょう」のレベル。みんながしあわせに暮らせるための、不文律のようなもの。「あいさつ」「掃除」「くつをそろえる」などは、こちらですね。
でも、心のはたらきや様子が、よりはっきりと現れてしまうのは、こちらの「戒」のほう。
「罰があるほうが、安易に取り組めるのです。ただそれをしなければいい。罰がないほうが、自分が試されるので、ある意味、過酷です。でも、そんな心があることを、まず認めてしまいましょう。心は本質的に、楽なほうへ、悪いほうへ広がるものなのです」
木を手入れするように。
「木の広がりかたも、伸び放題にしたら形がバラバラになってしまいますよね。美しく整った心は、意識して、手入れし続けるしかありません。木の枝をせんていしていくように」
庭の木々のせんていは、毎年やらなければならないことです。
美しくあるために、庭の木々に自分の心を投影してみるのはいかがでしょう?
文・写真/大竹稽(思想家、教育家)