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COLUMN

2020.07.06

30歳を過ぎたあたりから、実家へ足が向かなくなった。展開が読めるからだ。(第6話)

ガールズトークのガールって年齢制限あるのかな、と佳織は思う。ひかるはまったくそんな風に思わないらしく、興味津々で佳織の話を聞いている。正直なところ、ひかるが自分のことに関心を示すとは思ってもみなかった。

それに、最近隔離されていた男と狭いテントで一晩過ごした人間を、自分の部屋に招き入れるなんて、なかなかできることではない。この人やっぱり普通じゃない。佳織は自分の振る舞いを棚に上げて、そんなふうに思う。

「普通なところが、好きだ」と森に言われてから、35年巻いてきたネジが折れたような気がしている。佳織としては、できれば誰も行かない道を、の精神で生きてきたつもりなのに「普通」と言われてしまったのだ。

普通。こんなに意味のわからない言葉も珍しい。良いわけでも悪いわけでもなく、普通。それでいて「普通に美味しい」とか、「普通にダメだろ」とか言ったりもする。嫌いな言葉、普通。

それなのに、普通と言われて胸を撃ち抜かれている。馬鹿みたい、と佳織は思うが、じゃあ悔しいのかと言われたらそうでもない。

「テントの中って、暑いん?」ひかるが訊く。

「夜は寒いくらいだった。それよりも、音。雨の音が想像以上に響くし、風が吹いたらゴトゴト揺れるし、しまいには動物の息みたいなものまで聞こえる気がしたり、結構怖いのね」

「へえ」

「なに?」

「お相手がいても、怖かったんや」

ひかるは珍しくからかうような口調だ。

「うん、ちょっと怖いのが余計によかった。なにが?」

佳織にとってのひかるは、危なっかしく見える反面、姉のように頼もしく感じられもした。実の姉にはついぞ抱いたことのない感情だった。

ひかるの部屋は、決して物であふれているわけではないのだが、整っているとは言い難かった。しかし、不思議と居心地がよかった。なんと言おうか、自分を隠さない部屋だった。「マンモスの歯」や「3億年前の化石」の隣に「そこらへんで拾った石」が飾ってあった。

ひかるの飼っているチワワは、佳織を闖入者(ちんにゅうしゃ)とみなし、いつも以上に盛んに吠えた。名前を「リキ」というらしい。ごく小柄な見た目と釣り合わない名に思えたので、佳織は由来を聞いてみた。

「恵比寿のころ、同じ階に一人暮らしのおばあさんが住んではってん。もともとそこにいた子やねん。ある日、おばあさんが息子さんのところに移らはることになったんよ。

――息子のところ、ペット飼えないからどうしようかしら。

あ、それやったら私引き取ります、おばあさんスマホ持ってますか?

――使いこなせてないけど一応持ってるわよ。

ほんなら私がそちらにリキの様子を送りますよ。

――写真が見られるのね。

写真どころか動画で送りますよ。

ということ。ちなみにおばあさんがいままでに飼った犬は全員名前がリキやねんて」

ひかるがところどころ声色を変えて説明した。

「けどな、リキ全然懐かへん。一日中怖い顔して吠えてんねん。しゃあないから撮って送ってみてんけど、おばあさんから返事ないねん。あかん、怒ってはるわ、と思ったからできるだけ可愛いとこ狙って送っててんけど、やっぱり返事ないねん。そしたらしばらくして、息子さんから『母は亡くなりました』って連絡が来て。もうそれからは、私はリキを可愛がるけど、リキは私が気に入らんかったらそれでもええかと思うことにした。私に吠えるということは、リキにとっては、おばあさんがまだ生きてるってことやもんな。けどな、リキもムカつく相手と一緒に住んでたらストレスかなあ、とも思うねん。私なんかと違ってドリトル先生みたいな人と暮らしたほうが幸せかなあって。でもそうなると、おばあさん消えてしまうやろ?難しいとこやで、ほんま。なんの話やったっけ?」

佳織は、ひかるの話にいつも笑わされながら、ほんの少しだけ胸を突かれる。

 

宇川紗枝は、苛立っていた。今日だけではない。昨日も、一昨日も、その前も。さかのぼれるだけさかのぼっても、ずっと苛立っていたような覚えすらある。

そんなわけないじゃない。どちらかというと人より幸せな人生のはずなのに。  紗枝はそう思ってさらに苛立つ。

昼のテレビで「東京に第2波は来ているのか」について議論が交わされている。手元のスマホには「東京3日連続で新規感染者100人超え」というニュースが届く。

これらが自分をイライラさせるのはわかっているのだが、紗枝はどちらからも目を離せない。

紗枝は夫の克哉、そして2人の子と、京都市西部の大枝というところに住んでいる。家を建てる時、克哉は「もうちょっと街の中にしないか?」と言ったが、紗枝の「実家のある亀岡市に車ですぐ」という条件が優先され、この地に決まったのだった。実際子育てをするとなると、忙しい克哉をあてにはできず、母の手を存分に借りることとなった。いまでは上の優奈は小学6年生。下の倫太郎は1年生だ。

今年度、優奈の修学旅行は中止された。最後の学芸会(6年生の劇は花形なのだ)も中止。いずれも授業数不足を補うため、やむを得ない措置とのことだった。優奈は「ま、仕方ないね」と強がっていたが、相当落ち込んでいるのは間違いなかった。

学校が再開されたのはよかったが、集団登校を避けるべしとのことで、1年生の倫太郎には毎朝紗枝が付き添わなければならない。幼稚園が終わって、ようやく早朝の身支度から解放されるかと思ったらこれだ。

学校行事のことはまだいい。紗枝は、進学塾の休講に気を揉んだ。優奈が受験を控える年なのに、これでは進度にばらつきが生じる。優奈は志望校の水準にはまだ達していないのだ。

そんな中、経営コンサルタントの克哉が忙しい。顧客である中小企業が、どこも苦境に陥っている。そんな時こそコンサルタントの出番らしい。ただでさえ忙しい人が、フル回転で働いている。しかも主に自宅で。

今日は、どうしてもオフィスに行かなければならないとかで、克哉がいない。久々にひとりになったのに、イライラし通しだ。

テレビ番組もネットニュースも東京、東京。

東京という文字を見るたびに、どうしても妹のことが頭をよぎる。2歳違いの妹は、大学入学を機に上京し、そのまま東京で就職した。生ハムの輸入会社だ。以前は盆と正月には帰省したが、ここ数年はどちらかしか帰ってこない。結婚はしていない。

妹とは子供の頃から、どこか反りが合わなかった。確かに姉妹なんて多かれ少なかれそんなものかもしれない。しかし、姉としてせっかく愛情を注ごうと思っているのに、妹がむやみに敵愾心(てきがいしん)を燃やしてくるものだから、ついそれに対抗する。結果として自分の醜い部分を自分でも見なければいけなくなる。その仕組みが紗枝は気に入らなかった。

母が勧める通りに、紗枝は京都市内のミッション系女子高へ進んだ。その高校は、日本で初めてセーラー服を採用したと言われていた。楚々とした紗枝の容姿には、よく似合った。他校の男子からの視線を感じることも少なくなかった。

そんな紗枝に、当時中学生の妹が言った。「高校生にもなって毎日同じ服着せられるなんて私は無理」それから、自慢だった制服が色あせたような気になった。

2年後、妹は制服どころか校則もない、自由な、それでいて優秀な共学校に入った。まるで遊びに行くような格好で登校した。母は毎朝、妹の服装を咎めた。

もうちょっと脚を隠しなさい。袖はどうしたの。どこに売ってるのそんな服。あなた髪そんな色だった?

妹は、うるさそうな顔をするものの、何も言わず家を出るのだった。紗枝の高校では最寄りの駅までは徒歩かバスと決まっていたが、妹はそのバスを追い越さんばかりに、颯爽と自転車を漕ぐのだった。

20年も前の妹の姿が、なぜかいまになって紗枝の脳裏によみがえった。それがますます紗枝を苛立たせた。

佳織が、姉からのラインに気づいたのは、23時過ぎだった。届いてから4時間以上経っていた。森と会っていたせいだ。

お互いに休みの週末、佳織は初めて森を部屋に招いた。この前のキャンプで森が作った料理があまりにおいしかったので、お返しすることにしたのだ。

「キャンプでは5割増でうまく感じるもんだけどね」と森は謙遜したが、佳織は久々に手抜きなしの料理に取り組んだ。食材調達の都合上、ローストビーフと筑前煮というおかしな組合せになってしまったが、どちらも上々の出来だった。

酔いも手伝ってか、佳織は昔DJブースで掛けていた曲を流したくなった。

「ブラン・ニュー・へビーズ」「インコグニート」なんて、いまの耳で聞いたらどうなるんだろうと思ったが、案外悪くなかった。なにより森が反応したのが嬉しかった。

「アシッドジャズ!佳織ちゃんこんな感じだったんだ。俺たちの世代でこんなの聞いてたやついないでしょ。へえそうなんだ。最高だね」

気分が盛り上がり、さらに曲を探そうと思ったところ、姉からの「連絡ください」で始まる文面が目に入ったのだった。

姉からの連絡は、3月に600枚ものマスクが届いて以来だった。

「マスクならまだまだあるよ」そんなことを思いながら開いてみると、本文は「連絡ください」だけだった。なんだかんだと口数の多い姉にしては、ずいぶん素っ気ない。何かあったのかと、逆に気にかかる。森に断って「どうしたの?」と返信する。すると、程なくして姉から電話が掛かってきた。なに、直接電話って、と思いながらも無視できず、佳織は応答した。

「紗枝だけど」と姉が言った。わかってるよ。それに、いい大人なのに一人称が自分の名前ってどうなの。と佳織は内心毒づくが、自分も家族の前ではそうなのだ。

「気づくの遅れてごめん。どうしたの」と、謝ったにも関わらず、

「佳織、あんた、変なところに飲みに行ったりしてないでしょうね」

紗枝がいきなりそう切り出した。その口調があまりに母そっくりで、佳織は具合が悪くなりそうだった。

「行ってないよ。なによいきなり」

「東京大変じゃない」

「うん、そうみたいね」

「そうみたいって、あんた東京でしょ?」

「別に私が東京じゃないよ。私は佳織だよ」

森の前なのに、情けないやり取りをしている。

「東京の20代と30代がダメなんだって、ずっと言ってるよ」

紗枝は苛立っているようだった。

「だからどうしたの」

「だからどうしたじゃないわよ!優奈の修学旅行だってなくなったのよ」

まるで母に怒られているようで、佳織はいよいよ気分が悪い。

「それは佳織と関係ないでしょ。八つ当たりしないでよ」思わず自分のことを佳織と言ってしまった。

森は窓枠にもたれて、ウィスキーを飲んでいる。森のいるその一角だけ楽園みたいに見えた。楽園に逃げ込みたい気持ちを、佳織はなんとか抑えた。

「お父さんの頚椎ヘルニア、また悪いの知ってる?」

冷たい声で紗枝が言う。知らなかった。無言でいると、

「また手術になるかも。でもあんた帰ってこなくていいから。帰ってきたら駄目だからね」

一方的に電話が切れた。

佳織は森に向かって「姉。なんか機嫌悪いみたい」と力なく笑った。

30歳を過ぎたあたりから、実家へ足が向かなくなった。展開が読めるからだ。それが今回のウィルス禍で、帰省が自粛対象になり、佳織としてはどこか安心していた。

しかし、これはいつまで続くのだ?私が、私の意思で、帰省したいと思った時、それは許されないのか?佳織は自分の胃が石塊にでもなったように感じ、ソファーにへたりこんだ。

 

文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子