鴨川沿いの濃い緑を見ながら車は北上する。
京都は先日訪ねたバンコクよりもはるかに蒸し暑かった。逃げ込むように乗ったタクシーで病院に向かっている。
父に会うのは1年ぶりか。
しかし、それほど久々と思えない。普通の父親と違って、自然とその近況が漏れ伝わってくるのだった。新聞雑誌にテレビ、最近はウェブサイトも加えた様々なメディアが、父「茗荷谷道彦」の精力的な活動を報じた。
複数の連載に加え、展覧会、ライブペインティング、講演、美術展の審査など、到底80歳とは思えないスケジュールで全国各地を飛び回っている。同じく出張の多い40代のわたしは、最近めっきり疲れやすいというのに。
20分ほどで病院に着いた。受付で父の所在を尋ねる。面会時間前だったが、すんなり通してもらえた。そのことが却って不安を誘う。父だって高齢だ。いつ何があってもおかしくない。
教えられた個室の前まで来た。病院側の配慮なのか、廊下に名札はない。ひとつ息を吐いてから、軽くノックをする。
「どうぞ」扉の向こうから聞こえる声は確かに父のものだ。
スライド式のドアは、わずかな力で音もなく開いた。
「おう、雪ちゃん、久しぶり」
わたしの顔を見て、左手を挙げた。笑顔だった。いくらかは衰えた姿を覚悟していたのに、見たところ変化がない。
ベッドの背は立ててある。大柄な父には、移動式のテーブルはいかにも手狭だったが、スケッチブックにパステルで何かを描きつけている。さすがにいつものジーンズ姿ではない。若者が穿くようなアディダスのジャージーパンツ。これはこれで似合っている。
元気そう、というのもおかしな話だが、実際元気そうだった。少し拍子抜け。わたしは言葉を探した。
「どこなんですか。悪いところ」
「胃。でも悪いところはもうない。内視鏡で取ってもらった」
「えっ?もう手術済んだってこと?」
「ああ。軽かったからね。なんか恥ずかしいよ。癌っていっても豆粒よりちっちゃいんだぜ」
親指と人差し指をくっつけながら、父は笑った。
「いつ取ったの?」
「病院に来た次の日だから3日前だな」
「経過は良好ってことでいいんですね」
「うん。そう聞いてる」
ひとまず緊迫した病状ではなさそうだとわかった途端、全身の力が抜けた。ほとんど家にいなくても、わたしの父はこの人しかいない。
「退院は決まってるの?」
「この分だと明日明後日みたいだよ。模範的患者だから」
「ママも来るようなこと言っていたけど」
「ああそうなの。そのうちこっちが東京行くんだから、わざわざ来なくていいんだけどなあ」
そういうことではない。相変わらず噛み合わない夫婦だ。
父はもうスケッチブックに向き直っている。かつて父の画集の帯に「絵筆を止めたら死ぬ男」と書いてあった。誰が考えたコピーか知らないがその通りだと思う。
ベッド脇の棚には、タオルやTシャツがきちんと畳まれ、マグカップやウェットティッシュなども整然と並んでいる。
真っ白なフェイスタオルは、一目で上質なものだとわかった。同じく真っ白なTシャツに至っては、どうやらサンスペルらしい。1着1万円はする。何事にも頓着しない父が揃えたとは、とても思えない。
そして愛用の画材も、棚の一角にコンパクトにまとめられていた。父にとって居心地のいい空間ができあがっていた。
誰かが並べてくれたのだと思った。きっとその人が今の父を支えているのだろう。
その誰かが今にも部屋に入ってくるのではないか、とふと思う。それは困る。気持ちがついていかない。
病室を後にする間際、父には告げようと思った。
「仁さんが亡くなったそうです」
父が手を止める。かつての娘婿の話だとわかるのに一瞬の間があったが、やがて憐憫(れんびん)の表情が顔に広がる。
「それは辛かったね」と父は言った。思いがけない言葉だった。
10年も前に別れたわたしとは、比べようもなく辛い人がきっといる。そう思って心に蓋をしていた。
辛いなら辛くていいのだと、父に言われた気がした。
母はまだ仁の死を知らない。伝えるつもりはない。「体も悪かったのね。別れておいて正解だったわ」母ならきっとこう言う。
東京に戻ってほどなく、自宅マンションに父からの手紙が届いた。10代の頃を思い出した。父は昔、私たち兄妹に頻繁に手紙をくれた。3人まとめてではなく、それぞれに宛てられていた。世界中の旅先からそれは届いた。乗った船、出会った人々、珍しい花や木、街角に寝そべる犬…、父の生き生きとした絵に短い文章が添えられていた。楽しみな一方で、母に見つかるといちいちうるさいのが厄介でもあった。郵便受けをこまめに確かめたものだった。
久しぶりに受け取る父の手紙は、かつてと変わらず、厚紙を適当な大きさに切ったものにしたためられていた。
海だろうか。水辺の風景が描かれている脇に「一度、湖と山を見においで」とあった。
琵琶湖だ。父のアトリエをわたしはまだ見たことがない。
夏の終わりになら時間が作れそうだ。
父の誘いは、わたしの心にごく自然に染み渡った。まるでわたしはこの手紙を待ちわびていたかのようだった。
京都駅から湖西線という在来線に乗り換える。しばらくは林立するマンションに遮られて車窓が狭いが、20分ほどで急にひらけた。
右に琵琶湖、左にはすぐ比叡山が迫っている。なおも行くと、ますます水と緑のコントラストが際立ってくる。海と見間違えそうに広い。
父はしばしばわたしたち家族を海水浴に連れ出した。7歳の夏、大磯の海でわたしは溺れかけた。思いのほか高い波に体を巻かれた。父母はもっと幼い妹に注意を向けていたのだろう。わたしを見ていなかった。兄の叫び声に気づいた父が慌てて駆け寄り、わたしを引き上げた。パラソルの下でタオルにくるまっても、一向に震えが止まらなかった。
「あなたのせいで今日いちにちが台無しよ」
母が押し殺したような口調で言った。
この人の前から消え去りたいと思った。
和邇という古めかしい名の駅で電車を降りた。「わに」と読むらしい。乗降客は数える程だ。
父のアトリエは山の麓にある。徒歩35分だそうだ。運良く1台だけ客待ちのタクシーが停まっていた。運転手は初老の男性で、目的地を告げると「ああ、茗荷谷先生のとこですね」と返してきた。「取材ですか?」と聞いてくるので、「いえ親類のものです」と曖昧に答える。
慣れた様子でタクシーは進んだ。旧街道のような風情ある道を抜け、斜面を登って行く。途中小さな町医者の前を通る。ふと、父の病室の光景が思い出される。いや、本当はあれ以来ずっと気にかかっている。純白のタオルとTシャツを畳む人。その人は、今日わたしの前に現れるのか。
これ以上行くと林道と呼べそうな気配が漂い始めたところで、運転手は車を停めた。お帰りの際はここに連絡ください、と名刺をくれた。
それほど大きくはないものの、どっしりとした門扉。その先の前栽の緑は無造作なようで、実際は手入れが行き届いていた。駅のあたりよりいくらか涼しい。
到着を告げる呼び鈴を押すと、インターホン越しに父の声が聞こえたので少しほっとする。いきなり女性の声でなくてよかった。
電子錠が解除された。門扉を開けて敷地内に入る。車一台通れるほどのアプローチを、緩やかな右カーブを描きながら登っていく。しばらく進むと両側の木立が突如途切れ、視界が大きく広がった。
丘の上に現れたのは、前面全てがガラス張りの建物だった。コンテナを横に伸ばしたような形状の平屋建て。背後にそびえる山並みとモダンな建築が、ほどよい緊張感を保って調和していた。
建物に近づく。側面の大きなドアが開き、中から人が現れた。父ではない。
小さな襟の真っ白なシャツを着たその人は
「雪さんですね。初めまして。いつもお話は伺っていますよ」
と、言った。男性だった。
うるさいくらいだった蝉の鳴き声が消えた。わたしはしばし無音の世界に放り込まれた。
文/大澤慎吾 写真/塚田亮平