私は過去に一度、仁からのプロポーズを断っている。付き合い出して、1年が経った頃だった。理由は些細といえば些細なことだ。
子供の頃からアトピー性皮膚炎の私は、塗り薬が欠かせない体だ。わずかな温度変化が引き起こす絶え間ない痒みと、逃れることのできない軟膏の違和感。なんで自分だけこんな目に遭わなければならないのかと、子供心に恨んだ。
加えて、薬を塗ってくれる母がいつも言うセリフ「こんな体に産んでごめんね」。いかなる因子が呼び起こした症状かはわからない。母のせいではないかもしれない。しかし母の心に負担をかけている事実が、辛さに拍車をかけた。
顔には現れにくい性質だったので、周囲には悩みを悟られにくかっただろう。しかし、例えば肘の内側。しょっちゅう血がにじむ。綿100%のロンTで隠す。ボトムは自然とデニムになる。無難なアイテムを選ぶ癖はこのせいなのだと思う。いつしか外見に引け目を感じることが、私の基本姿勢になっていた。
大人になるにつれ、少しづつ症状も和らいできた。肌の調子の良い日悪い日のバランスが、快方に向いているのが実感できた。
それでも急に暗転することがある。
気温がいきなり上がった初夏のある日、しばらくぶりに悪化してしまった。脇や腰骨付近、そして背中が赤く荒れた。
その夜、仁は私の体を見て「遺伝するんだよね」と呟いた。
恐らく仁は、私よりも前の世代を念頭において話したのだとは思う。君のせいじゃないよ、と。
しかし、私自身は、この後に生まれてくる世代、つまりは私の子供にも遺伝すると指摘されたように感じた。何よそれ。頬が熱くなるのがわかった。
2日後、怒りとも悲しみともつかない感情が、まだ手触りをはっきりと残す中、仁から結婚をほのめかされた。釈然としない気持ちを、そこでしっかりぶつけるべきだったのに、私が言ったのは、「少し考えさせて」。
4年が経った。結果的に断ったのと同じだ。
交通業界新聞や時刻表などをつくる会社に仁はいる。私が鉄道の特番を担当した時に知り合った。草創期の鉄道にまつわる資料が急遽必要になり、相当な無理を聞いてもらった。休みの日に資料室を開けさせたことさえあった。少しくらい嫌がってもいい状況なのに、仁は涼しい顔をしていた。
ぼそっと「僕もこの箱根観光地図の初刷りを見るの初めてですよ」と漏らしたり、どこか楽しげだったのが心に残った。お礼の食事をきっかけに2人で会うことが増え、付き合い始めた。東京出身。離婚歴あり。子供なし。
仁が一人暮らしをするマンション。部屋から帰る私を見送る時、エレベーターに私が乗るまで玄関の鍵は決して締めない。無言の優しさがある人だと、最終的な芯の部分では信頼しているのだけど。
慣れぬプロデューサー業務。出口の見えぬ仁との関係。お世辞にも視界良好とは言えない私の生活。
そんな中、思わぬ方角から差してきたやや濃いめの光。フェニックス純。
取材中、学生プロレスを見ていたと告げると
「マジっすか!あの時代知ってる人と会うなんて。いや、嬉しいなあ!俺あの頃相当かっこよかったですもん」
とテンション高く応じてくれた。どさくさに紛れてラインを交換。
ささやかな憧れを抱いた人に、思わぬ形で再会した。でも、フェニックス純の「思わぬ形」度合いは、実はこんなもんじゃなかったのだ。
撮影から数日経ち、会社の編集ルームで、相田奏のVTR進捗をチェックすることになった。新人ディレクターであるにも関わらず、奏の編集はテンポよく的確だった。華やかな容姿と、気の利く振る舞い。その上、編集までうまいなんて、この子すごいな。何者なんだ。
自分が新人Dだった当時を思い返す。毎日ボロボロになって地べたを這いずり回っていた気がする。ロケの仕切りは悪く、編集は拙く、プロデューサーに物を投げられそうになったことすらある。
でも、見ているうち、微かな違和感を覚え始めた。なんというか上手すぎるのだ。確かに見やすい。情報が過不足なく含まれ、見せ場の選択にも誤りがない。なのに、いや、だからこそ、つまらないのだ。はっきり言って。
もしかして私はひがんでいるのか。多くのものを持つ彼女に。あるいはそうかも知れない。それを証拠に、VTRのどこをどう修正すべきなのか、適当な言葉が見つからない。「うますぎるから直して」言われる側は、たまったもんじゃない。いや、でもね。
そんなモヤモヤした頭を吹き飛ばす場面が、モニターに映し出された。
2対2で戦うタッグマッチのようだった。おや?1人は女性か?変則的な試合なのかな?
長い髪にスラリとした体躯、真紅のドレスのようなコスチュームを着たレスラーが躍動している。トップロープ上の表情をカメラが捉える。恐ろしく美形。タカラヅカっぽい、ビッシビシのメイク。
え?何これ?「フェニックス純」改め「ミスターマー」が、完全無欠な女装姿で戦っていた。
新宿東口の居酒屋の東方見聞録。いつ以来?20代前半とか?いや、全然構わない。むしろ気が楽でいい。
フェニックス純から「飲みに行きましょう!!」とラインが入り「はい!!」と即答してしまった。数年ぶりにワンピースなど新調する。
掘りごたつのある個室。7,8人は座れそうな広さに2人。
リング下から彼を見上げていた頃は、やや憂いを含んだ美青年かと思っていたのだが、大人になった今、言葉を交わしてみると、随分わかりやすく陽気な人だった。
「俺、とにかくプロレスが好きなんですよ。本当はメジャー団体に入りたかったんですけど、テスト受けるには体格の条件があって。180センチ80キロ以上。身長はいけたんですけど、体重がどうしても増えなくて。家系的に。恨みましたよ先祖マジで」
「それで一旦就職したんです。百貨店に。小売って体育会系有利なんですよね。でも今の団体の代表、エイトさんに会っちゃって、手伝ってるうちにやっぱりプロレス楽しくなっちゃって、会社辞めちゃって、嫁ブチ切れちゃって」
「俺、忘年会で女装したことあるんですよ。嫁にメイクしてもらって。その頃には嫁も俺のプロレス愛を受け入れてて。そしたら美人だ美人だって周りにめちゃめちゃ受けたんです。これだ!って代表が言い出して『お前はこれから美魔女レスラー、ミスターマーだ』って。次から女装して試合することになったんですよ。今の時代、炎上しそうですけどね。でも零細団体なんで話題作りのためならなんでもやらなきゃいけない。少々叩かれても」
私が相槌を打つ間もないほど、フェニックス純は喋りまくった。憧れのイケメンと向かい合う緊張はすっかり解けた。嫁嫁連発してるし。
やがて私の顔を見て、
「ところで、遠藤さんはお化粧しないんですか?」
「しないって決めたわけじゃないんですけど、しなくても許される職場だったので、なんとなくこのままきちゃいました」
「してみましょう。遠藤さん絶対綺麗になると思いますよ」
「そうですか?」
ドキッとした。絶対綺麗になると言われた。仁の口からはまず出ないセリフだ。
「でも、何から手をつけていいのか」
「今しましょう」「?」「持ってますから、一式」
フェニックス純は、迷彩柄のダッフルバッグの中から、工具箱のようなものを取り出した。中を開くと、ドライバーやペンチの代わりに、大量の化粧品が詰まっていた。
「ちょっと暗いな、ここ。すみませーん!この部屋の照明だけもっと明るくできませんか?」
フェニックス純の大声が、居酒屋に響いた。
文/大澤慎吾 写真/塚田亮平