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COLUMN

2020.01.13

妙に女の影が切れない父の女遍歴が増えれば増えるほど、母が大勢の中のひとりに埋れてしまうようで、それが気に食わない。

分厚いガラス窓に遮られて、リンク内の音は聞こえない。効き過ぎた暖房と立ち込める湿気が、体を包む。

窓際のカウンター席はダウンコートを着たままの女達で占められ、一席たりとも空きがない。女達は真剣な視線をガラスの向こうに注ぐ。

娘らが氷上を舞う姿の向こうに、喝采の渦が見えているのだろうか。

 

「チリトマトヌードルってシーフードヌードルより古いって知ってました?」

尋也が場違いに大きな声で言う。

「へえ、そうなんだ」

千鶴はまるで抑揚がない返事をする。興味の薄さがそのまま現れた格好だ。こういうところがダメなんだよなあと、千鶴は時折反省するが、持って生まれた性格はなかなか治らない。

尋也は特に気にするでもなく続ける。

「チリトマトなんて最近っぽいじゃないですか。でも30年か40年前からあるらしいすよ」

30年と40年じゃずいぶん違うと思うが、彼にとってはどちらも「生まれる前」として大くくりにできるのだろう。

「まあ。俺は食べないすけどね」

確かに尋也が大きな手で鷲掴みにしているのは、カレー味だった。女達の香水と人工的なカレーの匂いが混ざり合う。

休憩室に入ると、いつも尋也はその一角を占める売店に直行する。そして必ずカップヌードルのカレー味を買って、レジ横のポットからお湯を注ぐ。ここだけの楽しみなのか、日常的に食べ続けているのかは知らない。

神宮外苑のスケート場。都内では有数の規模だという。コーチの指導を受ける子供達から、暇つぶしの大人まで、いつ来ても賑わっている。

千鶴は自動販売機で150円のコーヒーを買う。紙コップがポトンと落ちてきて、ジョロジョロと気合いの入らない音が聞こえる。高いよなあと思いながらも、他に選択肢がないから仕方ない。

尋也はものすごいスピードでカップヌードルのカレー味を食べる。千鶴のコーヒーが半分も減らないうちに食べ終わる。

「ああうまかった。じゃあ先行ってますわ」

尋也はそう言うと、休憩室を出てリンクに向かった。

千鶴と尋也がスケート場に来るのはもう5度目だ。

職場の飲み会で、スケートの話題になった。千鶴の数少ない特技だ。

苫小牧生まれの尋也は、幼稚園の頃からアイスホッケーをやっていたらしい。そしてアイスホッケー推薦で大学に入ったのだそうだ。

「アイスホッケーの推薦?そんなのあるんだ」

「あ、バカにしてます?一応関東学生リーグのベストシックスに選ばれたこともあるんですよ」

「ベストシックス?ええっと、試合を6人でやるってことかな」

「そんなことも知らないんすか?」

「知らないよ普通」

「今度行きましょうよスケート」

社交辞令かと思ったら、翌週には本当に滑っていた。

千鶴が今の会社に入ったのは、10年ほど前だ。新卒で入った大手情報システム企業の激務に恐れをなして、3年足らずで転職した。

今思えば、あの会社が極端に激務だったわけではなく、世の中どこも似たり寄ったりだったのだが、選択は取り消せない。

幸いシステムエンジニアとしての実務能力が認められ、今の小さな商社の中では、仕事のできる人材として一定の評価は得ていた。

3年前、やる気はあるのにパソコンの基礎知識があまりに低い奴がいるから教えてやってくれ、と上から押し付けられたのが尋也だった。

体が馬鹿でかくてラグビー部出身とかそういう雰囲気だったが、やけに色白なのが印象的だった。以来、なんとなく気が合う関係だ。

 

「お父さん、その後どうなんすか?」

尋也は細かく蛇行しながら千鶴に聞く。

なんで身内の話なんか明かしてしまったのかと、千鶴は思う。安心させるんだよなあ、顔が。何にも考えてなさそうと言うか。

「まあ、相変わらず死ぬ死ぬ言いながら生きてるみたいよ」

「死なないもんすね」

「あのさあ、それは私が言うならいいけど、君が言ったら問題あるよ」

「すんません」

千鶴の父は、地元で一人暮らしだ。最近女が去ったらしい。でもそのうちまた誰か見つけるのだろう。

特別金持ちなわけでもない。髪もだいぶ薄くなってきた。病気をやって痩せた。それなのに妙に女の影が切れない。父の女遍歴が増えれば増えるほど、千鶴の母が大勢の中のひとりに埋れてしまうようで、それが気に食わない。

でも、父の身の回りのあれこれは、地元に残る異母妹が見てくれているわけだから、千鶴としてもあまり勝手なことは言えない。この異母妹は最近看護師になった。明るくていい子だ。

母と父と3人で暮らした子供時代、千鶴は町はずれのスケート場に行くのが楽しみだった。母はスケートが得意で、千鶴に熱心に教えた。母から何かを教わったのはスケートくらいだ。

おかげで後ろ向きに8の字を描いたり、片足を上げたり、その場でスピンしたりと、素人離れした動きができるようになった。

一度だけ、日光の古くて立派なホテルに泊りに行ったことがある。両親がいつもよりいい格好をしていた。広くて立派なダイニングで食事をした。真っ白なテーブルクロスと、そこに置かれた赤い花が綺麗だった。給仕の男性の髪は、一本たりとも乱れがなかった。

ホテルには屋外スケートリンクがあるらしかった。プールの水が凍るのを利用した天然氷のリンクだと、給仕の彼が胸を張った。「大正5年からあるんですよ」

大正5年がどれくらい古いのかは、子供の千鶴にはよくわからなかったが、外でスケートなんて素敵に違いない。母を急かして食事を終え、スケートリンクに向かった。

先客は数えるほどしかいなかった。鏡のような氷の面から、うっすらと霧がたなびいていた。外灯に反射したそれが、キラキラと光っている。

美しい夜だった。千鶴はこれほど美しい光景を見たことがなかった。滑るのを忘れて、しばらく立ち尽くすほどだった。

母はスケート靴を履かなかった。父はリンクの脇でタバコを吸っていた。結局、千鶴はあまり滑らなかった。胸が詰まりそうだったのだ。

それからしばらくして、母が病を得た。2年闘った。母がいなくなると、町はずれのスケートリンクに行くこともなくなった。

 

周りの男女を見ていると、覚束(おぼつか)ない足元を補うためか、手を繋いだり抱き合ったりと、ずいぶん仲がいい。千鶴と尋也は間違ってもそんな事態にはならない。混み合うリンクを、スイスイとすり抜けて行く。尋也に至ってはマイシューズ持参だ。アイスホッケー用の靴は刃が短く、小回りが利く。

10歳も若い男と、土日に度々スケートをする。考えてみれば不思議な時間の使い方だ。何か確かなものに向かって前進しているのか。とてもそうは思えない。氷の上を反時計にぐるぐる回っているだけだ。

リンクに降りてしばらくは、雑談混じりに並んで滑るが、だんだんそれぞれの時間に入る。肩や腰、腿から爪先に至るまで、自分の体を細かく制御する感覚が千鶴は好きだった。微かなズレを修正しながら周回を繰り返すと、氷と一体化したような瞬間が訪れる。それが快感だった。

尋也は何も考えていないらしい。いつから滑れるようになったかさえ、記憶にないそうだ。「苫小牧ってそんなもんすよ」と彼は真顔で言う。

 

ひとしきり集中して滑ったあと、少し体を緩める。惰力を使ってリンクを回る千鶴の視界に、ひとりの中年男の姿が飛び込んできた。

「今日もいた」

レッスン生の色とりどりの練習着を別とすれば、リンク内の人間は皆、普段着だ。スケート用に特別着替えるようなことはない。

そんな中、彼は異彩を放っていた。ヒラヒラした白いシャツに、ベージュのパンツ。腰には極太の革ベルト。中世ヨーロッパの騎士風、とでも言おうか膝まであるブーツ状の靴を履いている。

周囲から明らかに浮いている彼だが、千鶴には一目でわかった。

キャンデロロだ。いや、偽物だけど。

フィリップ・キャンデロロ。1990年代に一世を風靡した男子選手。採点そっちのけで自分の表現に突き進んだ男。おかげで金メダルには縁がなかった男。

千鶴にとっては初めて憧れた存在だ。そのキャンデロロが得意とした「三銃士」のプログラムのコスプレなのだろう。

パーマのかかったような長髪を後ろで束ね、細い口ひげを蓄えている。再現に余念がない。目張りを施しているようにも見える。

「なんか、すごいすね」

尋也は冷めたことを言う。

確かに少し腹は出ているし、顔は似ても似つかない。でもスケート愛は確かだろう。

「いたんだよ。キャンデロロって人が。本番よりエキシビションに命をかけてんの」

「へえー」

「フランス人なんだけど星条旗を背中にまとって滑るのよ」

「なんすかそれ」

「理由は知らないけど、本当なんだからしょうがないじゃない」

「で、それの真似なんですか、あれ?」

尋也は偽キャンデロロを顎で差した。

「ああいうことすると、スケートの裾野が狭まると思うんですよね。ただでさえマイナースポーツなのに」

「そうかな。私はいいと思うけど」

「いや、やめたほうがいいです。普通がいちばんです」

いつ見ても当たり障りのない服装の尋也がきっぱりと言った。

コインロッカーから自分の靴を取り出す。ベンチに座りスケート靴を脱いだ。靴下まで一緒に脱げるのが、いつも情けない。男に足の裏を見られるのは気が進まない。

外に出ると、目の前は新しくできた国立競技場だ。スケート場なんて飲み込んでしまいそうな偉容を誇っている。

いつものように千駄ヶ谷駅に向かおうとすると、

「俺今日は歩きます」

と尋也が青山方面を指差した。

普段から千駄ヶ谷で逆方向に乗って解散するので、別に気にならないはずだったが、千鶴はなんとなく

「誰かと会うの?」

と聞いてみた。

「ええまあ」

と答える尋也は、少しよそよそしくて、それが気に障った。

なんであんたに気を使われなきゃいけないのよ。苛立っている自分が情けなかった。足の裏を見られているようだった。

スケート靴の入ったケースを背中で揺らしながら、尋也は夕闇に消えた。

帰りの電車の中で、ふと日光のホテルのことが気になった。あのスケートリンク、まだあるのかな。

ホテルのサイトを開いてみると、懐かしきリンクの写真が現れた。まだ健在のようだ。しかしよく見ると、注釈が添えられている。

「近年の温暖化により、満足な結氷(けっぴょう)が得られず、不規則な営業となっております。詳細はお問い合わせください」

千鶴は次の寒波が来たら、日光に行ってみようと思った。氷が姿を消してしまう前に、もう一度滑りに行こう。

夜空の下の、無人のリンクを思い浮かべて、千鶴は目を閉じた。

文/大澤慎吾