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COLUMN

2020.01.06

成人式の後「ボロやんなんてもう離婚したらしいで」と聞いた。ひょうたん池に沈んでいくようだった。

正月を迎えるたびに思い出すのは「ボロやん」のことだ。

恋心を伴って思い出していたはずが、いつしか条件反射のようになり、好きかどうかは二の次になった。大体私はもういい大人だ。

7日間だけの昭和64年が終わった翌々日、3学期が始まった。

3学期初日は書初め大会だった。習字セットと古新聞を持ってくるようにと、学級通信に書いてあった。

4年生は「お正月」か「春の光」のどちらかを選ぶことになっていた。私は「お正月」を選んだ。

ボロやんはどうしても「龍三」と書きたいと、担任の中野先生に直訴した。この秋に亡くなったおじいさんの名前だった。

「習ってない漢字やからなあ」と先生は一瞬躊躇したものの、

「うん。ええよ。おじいちゃんも喜ぶやろう」と気持ちのいい声で許可した。

これだけでも印象深いが、私の心に残るのはここからだ。

彼が持ってきた新聞紙。半紙の下に敷く、または試し書きをするための古新聞。それを私は忘れられない。

彼が教室の床に広げたのは「天皇陛下崩御」との見出しがつけられた一面記事だった。

私の家では考えられないことだ。日本にとっての一大事が記されている。私の父なら迷わず永久保存だ。実家の物置を探れば多分出てくる。

彼の家が思想的にどうとか、そういう話は知らない。きっと何もなかったと思う。

ボロやんは、紙面の内容など一切関知しない佇まいで、その上に半紙を置いた。大いなる死と、名も無き死。

真冬なのに薄着の彼は、真剣な面持ちで筆を握っていた。おじいさんを悼む気持ちが、目から溢れそうだった。

私は自分の「お正月」が急にくだらなく思えた。下に敷いた古新聞は3ヶ月も前のものだ。家に残っていたいちばん古いのをわざわざ選んだのだった。

私はなおも、ボロやんを盗み見た。彼は宙で筆を止め、しばらく動かなかった。凄みすら感じた。そして言った。

「先生、龍ってどう書くん?」

なんとかできあがったボロやんの「龍三」は、おそろしく縦に長かった。

 

ボロやんは本名を奥田篤といった。なぜ「ボロやん」などというあだ名がついたのか。それは着ている服がいつもボロだったからだ。ひどい話に聞こえるだろうが、当のボロやんに気にする様子はなかった。

ボロやんは勉強はさっぱりだったが、スポーツでは誰にも負けなかった。

50メートルを6秒ジャストで走ると、まことしやかに囁かれていた。さすがにそれは大げさだとしても、運動会ではいつも圧倒的に速かった。龍三おじいさんが毎年それを嬉しそうに眺めていた。

野球部にもサッカー部にも入っていなかったが、どちらをやらせても、部員の子よりうまかった。ボロやんの前でスポーツの話をするのは恥ずかしいような雰囲気さえあった。

ボロやんは男子の間で一目置かれる存在だった。一方で女子には人気がなかった。野性味が強すぎたのかもしれない。

私たちの小学校の学区は、古くから存在する町と、開発進行中のニュータウンとにまたがっていた。

両親が私の小学校入学に合わせて引っ越してきた当時は、まだローカル組が多数派だったが、ほんの数年で逆転した。何しろ年間100人以上もの転入生がやってくるのだ。

勢力図が変わっても、子供達の間に確執のようなものはなかったと思う。しかし私がニュータウン勢だからそう感じているだけで、ローカル組からすれば少し苦々しく思うところもあったかもしれない。

(ローカルの男の子に「お前ん家、トイレにシャワーついてるらしいな」と喧嘩腰に言われたことをいま思い出した。当時まだウォシュレット黎明期(れいめいき)だった)

ボロやんはローカル組だった。学校から見てニュータウンとは正反対の方角に家があった。子供の足ではかなり遠い。

ボロやんは私にとって、心理的にも物理的にもきわめて隔たりのある存在だったと言える。だからこそ私は惹かれた。

 

5年生になると、ボロやんとクラスが別れた。ボロやんは1組。私は5組。教室のある棟すら別々だった。

私は親の勧めのまま、進学塾に通い始めた。勉強は苦手ではなかったので、まずまず楽しかった。他校の友達ができるのも新鮮だった。

受験の結果、志望校に合格した。両親はとても喜んだ。とりわけ父のはしゃぐ姿を見るのは初めてのことだった。

中学へは電車で通った。駅に向かう道は、地元中学に通うこれまでの同級生達の通学路でもあった。しかし私の方が時間帯が早かったので、彼らに会うことはまずなかった。それがわかってほっとした。30年前の田舎の話だ。私立中学に通うなんて、裏切り者は言い過ぎとしても、変わり者扱いは免れなかった。

中学2年に上がった頃だった。私はいつものように駅へ急いでいた。ニュータウンのエリアを抜けると、地域ではいちばん由緒のある神社が現れる。その境内には通称“ひょうたん池”という可愛らしい池があり、私も小学校の写生大会で画題に選んだものだった。

池を右手に歩を進めると、対岸、ちょうどひょうたんのくびれに設けられた東屋に人影が見えた。制服の男女2人が寄り添っていた。

女は5,6年生で同じクラスだった美奈子だ。幼い頃から美形で鳴らした、女子のリーダー格だった。見ないうちに雰囲気がずいぶん大人っぽくなっていた。髪も茶色くしているようだ。私は緊張を強いられていることに苛立った。この時間帯は私のものなのに。

男はあちらを向いていて顔が見えない。背が高い。どうせ人気者の先輩か何かだろう。

美奈子が男の腕を引っ張るような仕草をしてじゃれた。体勢が入れ替わり、男の顔が見えた。

ボロやんだった。背が急激に伸びていたが、間違いようがない。

私はひょうたん池から目をそらして、歩く速度を上げた。歩幅も一杯まで広げた。それでもスピードが足りないので、走った。ローファーはフガフガして走りにくいが走った。最後には全力疾走だった。

美奈子と、その奥にいる大勢の女達に向かって叫びたかった。

「気づくの遅いよ」

私がボロやんの姿を見たのはそれが最後だ。

 

その後、私は東京の大学に進学した。市民会館で行われた成人式には、帰省がてら一応出席した。

式典の後、小中高どのグループに顔を出しても宙ぶらりんな気がした。そんな及び腰の私を見つけてくれたのは、意外にも小学校の同級生達だった。

安酒で盛り上がる中、警察官になった三木くんが早くも結婚したと聞き、一同驚いた。

でも当の三木くんは落ち着いたものだった。

「俺なんか大したことないよ。ボロやんなんてもう離婚したらしいで」

哄笑(こうしょう)とも悲鳴ともつかない彼らの歓声が、私の耳には水の膜を通したみたいに聞こえた。ひとり、ひょうたん池に沈んでいくようだった。

大学卒業後は東京で就職した。もう人生の半分以上を東京で過ごしている。

正月は毎年実家に帰る。輝かしきニュータウンはすっかり年老いて、陽光の下でさえくすんで見える。

いまだに独り身の私を、等しく年老いた両親はどう思うのか。

何度か女性と付き合ってみたこともある。父親は律儀にも彼女らの名前を覚えているようだ。母親は最近はあまり何も言わなくなった。

夜は毎日走る。帰省時も例外ではない。日課を崩すのは性に合わない。東京に慣れた目には、灯りが極端に少ない。路面状況に神経を払う。

ニュータウンの外周を走り切ると、ローカルの町だ。胸が少し締め付けられるのは寒さのせいか。

ボロやんのせいだ、と叫んだら、それは私の人生に対して失礼だろうか。私だってさすがに色々生きてきた。

ボロやんのことを思い出すのなんて、一年のうちで正月だけなのだから。

 

文/大澤慎吾

PROFILE

大澤慎吾 (おおさわ・しんご)

大澤慎吾 (おおさわ・しんご)

文筆家

1977年生まれ。子育てに一喜一憂する日々。 .&cosmeで2019年8月よりスタートした小説連載『大人だって、わからない』が大ヒットしファン急増中! 待望の第二弾連載小説『母のインスタを覗き見する』も1話から人気沸騰。ますます期待大の文筆家。

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