みなさん、こんにちは。
大竹稽がお送りする「禅の美容室」。
新型肺炎の上陸で不穏な空気に日本が包まれています。みなさんも不安がおありでしょう。気持ちの良い、鼻からいっぱい吸い込める空気になることを祈るばかりです。
さて、今回は伊勢原にあります広済寺のご住職、吉川道源和尚のお話を紹介します。お寺での「英文素読」の勉強会や、「絵入り御朱印」が評判です。
とらわれない心。
ところでみなさん、「とらわれない心になりなさい」というアドバイスをもらったことはありませんか? もしくは、こんなフレーズを聞いたことは?
不安や怒りをコントロールする。あるいは、怒りをなくす。そして、反応しない心になる。考えないようにする。などなど……。
こんな解釈がついて「とらわれない心」が紹介されるのですが……。
しばしば「無心」と変換されることもあり、これまたなかなか厄介な言葉ですよね。心を無くすってどうすればいいの? そもそも、心が無くなってしまっていいの? 至極、まっとうな疑問だと思います。
無くすのではない!
「とらわれないということは、無くすことではありません。自分というものを一つのところにとどまらせない。むしろ、偏在させる。あらゆるものが自分自身となるような心、それがとらわれない心です」
河津桜、みなさん今年は見られましたか? 東京でもしばしばお目にかかるようになったこの桜ですが、もうだいぶ散っています。この記事が公開されるときには、どの桜が咲いているでしょうか。
さて、「桜の花」だけに心がとらわれていたら、葉桜や散った桜の花びらは「がっかりなもの」とか、「きたないもの」になってしまいます。でも、葉桜には葉桜の姿があり、散った花びらにもそれなりの姿があります。その姿をとらえられるのが、「とらわれない心」なのですね。
とらわれない心は、素直な心。
「日本に来た外国人は、日本人以上に日本をとらえます。それは、与えられたものを聞く、教えられたものを見るのではなく、「聞こう、見よう」とするからできるのですね。わたしたちには届かない音があります。もちろん、能力の限界が原因のときもありますが、むしろ聞こうとしないから聞こえないことが多いでしょう。日本でも日常が当たり前になると、聞こえなくなってしまう音がたくさんあるんです。
「当たり前」をリセットしてみましょう。とらわれない心だから、聞く耳、見る目がもてるのです。そして、そのような心は素直な心なのです。『あ!聞こえた!』『あ!見えた!』小さなことにも感動できる素直な心なのですよ」
最近感動することがない……。と嘆くこともあるかもしれません。でも、それはあなたの心がマヒしているからかもしれません。日常は、愛らしいものにあふれているのですよ。
撮影・取材・文/大竹 稽