妹に彼氏ができたことは、喜ばしい出来事なのかもしれないが、相手のことがなぜか引っかかる。
俺なんて、随分いい加減な生き方をしてきたから、他人のことをどうこう言えた立場でもない。まして、彼氏は地下鉄の車掌をしていて、毎朝4時に起きるらしい。生真面目で安心できる相手みたいだ。思いつきで占い師になった俺なんかとは、人間の成分が違うのだろう。それなのに、だ。
そもそもの話をしよう。なぜ俺が占い師になったのか。
自分で言うのもなんだが、俺は昔から人気者だった。幼稚園の頃から、俺の取り合いで女の子が揉めた。俺のいるグループの方が、なんとなく楽しそうに見えたし、実際そうだったと思う。なぜなら、俺は相手の話をよく聞くやつだったからだ。口数が多いチャラいやつに見えるかもしれないし、まあそういう面もないわけじゃないんだが、相手の話を聞くのは全然苦にならなかった。その辺りが他のガキと違うところだった、って自慢みたいでごめん。
その後、子供から少年になっても、相手の話、特に女子の話を手を抜かずに聞いていたら、モテるようになった。
でも困ったことが起きた。誰かの話を熱心に聞いていると、他の誰かが怒り出すのだ。平和主義者でもある俺は、そこはお互い様じゃないか、と思うのだけど、そうもいかないらしい。「どっちかにしてよ」と何度言われたことか。
そんなこんなで30ちょっとで結婚3回、離婚も3回。どうせなら相手の話を聞くのを仕事にしよう、そうだ占い師になろう、そう思ったのが3年前だ。
人は誰でも、見られたくない部分を持っている。それなのに、誰かに見られることを願ってもいる。俺みたいな通りすがりの占い師になら、人はすんなり丸裸になるものらしい。不思議なことだ。
でも、頼まれてもいないのに、妹を占ったのはまずかった。占いなんて興味のなさそうな妹が、俺の言ったことを随分気に病んだようだった。
水谷くんの匂いは、私の知っている誰とも違う。甘いような、青いような、土のような、草のような、行ったことのない国のような匂い。
それは、彼の衣服から漂うのか、それとも彼の体から発せられるのか、いままでわからずにいた。
その日、彼の仕事が終わる中目黒駅で待ち構えたのだった。そして彼を捕まえ、
「お家、行ってもいい?」
と、聞いたのだ。きっと私は切羽詰まった表情をしていたことだろう。
水谷くんは、一瞬困った顔をしたが「いいよ。狭いけどね」と言ってくれた。その困り顔の原因が、重いものではないことを願った。
いくつか電車を乗り継いだ先の、神奈川との県境近くに水谷くんは住んでいた。4階建ての古いマンションだった。一人暮らしにはやや大きいようにも思える。別に狭くないじゃない。口の中に苦いものを感じる。
外廊下から見えるのは川らしい。
「あれ、多摩川?」何か話さないと不安だった。
「そうだよ」
最上階の角部屋の前まで来たとき、
「僕がいいって言うまで、目を閉じておいてもらえるかな。そのほうがいいように思う」
と、水谷くんが言い出した。恋人同士の楽しいおふざけ、と言うより、何かを秘匿(ひとく)するような雰囲気だった。
体が震え出した。寒さのせいだけではなさそうだ。
水谷くんが玄関の鍵を開ける音が聞こえた。そして無言のまま、私の手をとった。いままでに水谷くんの手に触れたことは、数えるほどしかない。それでも今日の彼の手は、いつもより冷たく、こわばっているような気がした。
室内に入ってまず感じたのは、独特の匂いだった。甘いような、青いような、土のような、草のような、行ったことのない国のような匂い。いつもの水谷くんの匂いだ。
「靴、脱げる?」「うん」
足だけ使って靴を脱ぐ。どちらか片方が、もう一方の上に乗り上げたような音がしたが、そのまま放っておくしかない。
「コートも脱いだほうがいい」
水谷くんが言う。
廊下で上着を脱ぐのは、とりたてておかしなことではない。それなのに動きに躊躇が混じる。自分の体温が残るコートを水谷くんに手渡すのが、恥ずかしく思えた。
私は促されるまま、すり足のようにして、歩を進めた。
短い廊下の突き当たりに、またドアがあるようだ。カチリと音がして、それが開いた。
その部屋に入った途端、否応なしに襲ってきたのは、真冬とは思えぬ暑さだった。むせそうなほどの熱気と湿気が、瞬く間に全身を覆った。それでも、私を襲っていた小刻みな体の震えは収まらない。暑いのに体が震えるのは奇妙なことだ。
カーペット敷きの床も、しっとりとした温気を帯びている。ストッキング越しにその熱を感じる。耳には、何かしらの電気的な低音がうっすらと届く。室内は明るく、閉じた瞼の向こう側に光を感じる。
手をひかれるままのろのろと進んだ距離が、5メートルなのか10メートルなのか、見当がつかない。すると、水谷くんは私の肩を両手で支え、椅子に座らせた。座面も背面も木製のようで固い。
「目、開けていいですよ」
と、水谷くんが言った。私はその言葉を待っていたはずだが、いざそう言われると開けるのが怖くなった。
「嫌かな」
目を開けない私を見て、水谷くんが言葉を継ぐ。
「大丈夫?」
と、私は尋ねた。
この目を開けたら、私と水谷くんの何かが変わってしまうのではないか、と思った。ただ「大丈夫だよ」とだけ言ってほしかった。
しかし、水谷くんは
「蓋はしっかり閉じてあるから」
と、わからないことを言って、私の右肩を軽く叩いた。
私は、思い切って、と言う割にはゆっくりとしたスピードで、目を開けた。
白っぽい明かりに照らされたそこは、想像していたより広い部屋だった。しかし、水谷くんが常々口にする「うち狭いから」との言葉も、嘘ではなかった。
テーブルは、書き物机ほどの大きさしかなかった。片隅にベッドがあるが、ソファーやテレビを置くスペースは見当たらない。
その代わり、天井近くまであるスチール製の棚が、列をなしていた。それらが空間を圧迫している。そしてその棚に整然と並ぶのは、一辺が1メートルもありそうな透明のケースだった。四角い箱の中で見たことのない形の葉っぱが茂っていた。ケースひとつひとつに照明が入っており、それらが合わさって、部屋全体を明るく照らしていた。
まさか、何か変なものを栽培しているわけじゃないよね、と不安に襲われるのと同時に、私の視界で枯葉が動いたように見えた。反射的に腰を浮かせた。
葉の一部に見えたそれは、体長30センチあまりのトカゲだった。
「ごめんね。言ってなくて」
水谷くんは、申し訳なさそうにしていた。
私は「ううん」と応えた。
ケースは全部で20個ほどあった。そこに大小様々な爬虫類が棲んでいた。砂に紛れるような色の者もいれば、鮮やかなオレンジ色を誇示する者もいた。
「昔から好きだったんだ。でも、誰にも言えなかった。大人になったら思いっきり飼おうと決めていた。規子さん、怖くないですか?」
「うん。大丈夫」
意外と本心だった。上野動物園の両生爬虫類館には立ち入ったことがない。いつも兄が父と入っていくのを見送って、私と母はその手前のフラミンゴ舎で待っていた。
いま、水谷くんの部屋に静かに居並ぶ彼らの姿は、恐怖を掻き立てるものではなかった。
「爬虫類って静かでしょ。そこが好きで」
確かに、彼らは静かだった。ケースの中を音もなく這っていた。私はそのしなやかな動きに思わず見入った。
「レオパードゲッコー。ヤモリの仲間」
水谷くんが小さな声で言う。ヒョウ柄のような体をくねらせている。大きな目は、どこか愛嬌すら感じさせた。
不意に泣きそうになった。自分でもなぜだかよくわからない。この小さな熱帯で密かに生きている彼らを見て、涙がこぼれそうだった。
「こんなところに押し込めるなんて、人間の勝手ですよね」
私の様子に気づいたのか、水谷くんが言った。
「ううん、違うの。そうじゃないの。なんて言うか、居場所って色々あるんだなあと思って。この子たちの居場所もそうだし、水谷くんだって…。私の居場所、どこなんだろ」
水谷くんがまた困った顔になる。
「規子さん、居場所ないの?」
子供みたいな声を出す。とても車掌とは思えない。私は水谷くんの体に腕を回した。私の唇がちょうど水谷くんの首筋に当たる。少し汗の気配がする。夏のように暑い部屋で、私たちはしばらく抱き合う。
ケースの中の生き物たちは、私たちのことになど、何の関心もなさそうだ。
私は、彼の唇に自分の唇を押し当てた。水谷くんは、ほんのわずか怯んだようにもみえたが、私を拒みはしなかった。
20歳の頃、彼氏とは呼べない男と、体を重ねたことがある。男が私を好きでないことはわかっていたから、私も彼を好きになるわけにはいかなかった。
それから10年、私は心に蓋をして生きていたのかもしれない。
「ベッドに行く?」
気づけば、私はささやいていた。何かが私を急かした。
水谷くんは黙って頷いた。
夜用の照明に切り替えると、爬虫類たちの棲家は、宇宙船のように闇に浮かんだ。
古代からその姿を変えない者たちに見守られながら、私たちは裸の体を寄せ合った。水谷くん自身の匂いを私は初めて知った。
たっぷりと湿気を含んだその部屋は、まるで深くて温かい水の中のようだった。重力の仕組みさえも変わってしまったらしく、私はどこまでも落ちたかと思えば、次の瞬間、羽になったかのように浮かんだ。
どれくらいの時間、水谷くんの手が私を愛しただろう、彼がふと私から離れ、ベッドに仰向きになった。
「規子さん、ごめん…」
「いいよ、大丈夫…」反射的にそう返してしまう自分が恨めしい。
「いや、そうじゃなくて、お願いしたいことがあるんだけど…」
水谷くんは、私に顔を向けた。
「いいよ。なんでも言って」
「ありがとう」
水谷くんはそう言うと、ベッドから立ち上がり、ぼうっと浮かぶ宇宙船に向かって歩いた。白い背中が光に吸い込まれて行く。
しばらくして、水谷くんは戻ってきた。その右手に、何かロープのようなものが巻きついている。いや、ロープではない。それは自ら動いた。白と黒の縞模様の蛇だった。
水谷くんは、ベッド脇に置かれた、大ぶりな観葉植物の鉢植えに、蛇を這わせた。音もなく、蛇と枝は一体になる。私はいまだかつて、こんなに間近で蛇を見たことはなかった。裸でいるのに、いや、裸でいるせいなのか、不思議と恐怖が起こらない。
「おとなしいから心配しないで」
水谷くんが言う通り、蛇は私を威嚇することもない。
「蛇、どうするの?」
かすれ気味の声で私が聞くと、水谷くんは
「僕、近くに蛇がいないと、できないんだ」
と、言った。思いがけない言葉に、呆然となる。
「どうしてなのかはわからない。でも本当にそうなんだ。いいかな…」
水谷くんの顔の向こうに、蛇が見える。蛇もまた私たちを見ている。お前たちの居場所はここだ、とでも言いたげな顔で。
私は、声を出さずに頷いた。
文/大澤慎吾 撮影/手塚旬子