母は美容院を営んでいた。海沿いの田舎町に、美容院は1軒しかなかった。物珍しさからか、小学校の同級生には「おい、パーマ屋」と絡んでくるやつもいた。大抵漁師の息子だった。
父は僕が3歳の頃に、病気で亡くなった。腕のいい美容師だったらしい。父を知る人は皆、男前だったと口を揃えた。
見た目だけの話をすれば、母のそれは、決して恵まれたものではなかった。
それほど太っているわけではないものの、骨がしっかりして、手足が短いせいで、ずんぐりむっくりの印象を与えた。
「小顔」の反対を「大顔」と呼ぶなら、母はまさにそれだった。広い顔面に、小さな目、丸い鼻、厚い唇が置かれていた。黒々とした髪をお団子にして、カラフルな服装を好んだ。全体的にギャグ漫画のような見た目だった。子供の頃の僕は少しそれを恥じていた。
しかし、この漫画ビジュアルが仕事には生きた。
技量に加え、親しみやすい風貌は、安心感につながった。あの町では、モデルのようにシュッとした女性美容師は敬遠されただろう。
美容院には「モンド」という屋号がついていた。フランス語で「世界」という意味の大層な名前だ。父は若い頃に一度だけパリに行ったことがあったらしい。母はパリはおろか、東京すら知らずに生きていた。
父には残念だが、町の人の多くは店のことをモンドとは呼ばなかった。母の名前が「節子」なので、皆、「せっちゃんとこ」と呼んだ。
「明日、朝からせっちゃんとこ行くねん」「せっちゃんとこでこんな話聞いたんやけど、あんた知ってる?」という具合。
店は繁盛し、街の女たちの社交場の様相だった。それが僕は嫌だった。
女たちは、とにかくよく喋った。母そっくりのもう一人の美容師(叔母だ)は手を動かしながら、ほどよく相槌を打った。
「ヤマモトさんとこ、また車変えはったで。えらい景気ええなあ」だの、
「紅茶キノコってどうなん?私全然効かへんねんけど」
といった、当たり障りのない話から、
「ヤマモトさんとこ、こないだ怖そうな男の人が押しかけてきたらしいで」やら、
「うちの人、あの女と切れてへんかったんや。包丁持って乗り込んだろかな」
という、剣呑(けんのん)な内容まで、ここでなら何を言っても許されていた。どこまで過剰な内容を話せるかを競うような雰囲気すらあった。中でも夫の浮気と更年期の話題は定番で、僕は大人の男女についての要らぬ知識を蓄えることとなった。
母と叔母は、客の下世話を来る日も来る日も受け入れ続けた。少年になった僕には、身内が汚されているようで、耐え難かった。
母は一度、
「どうせこの子も美容師になるんやろ」と言った。
僕に直接ではない。
ある日、中学校から帰宅し、店舗スペースを横切ると、鏡越しに僕を見た客が呟いた。
「また背ぇ伸びたんちゃう?将来楽しみやな」
すると母が、
「どうせこの子も美容師になるんやろ」と漏らした。
きっと間の悪い謙遜の言葉だったのだろう。
しかし僕はこの一文に囚われたのだ。
狭い世間から出たことのない母が、安易に僕の行く末を決めつけるのが気に食わなかった。14歳の僕の前には、広大無辺(こうだいむへん)な世界が待っていると思いたかった。僕がその気になれば、できないことはないのだと。
それよりも何よりも、自分の生業を卑下しているような言い方が僕は嫌だった。母への感謝の気持ち(口に出したことはない)さえもが、雑に扱われているようで腹が立った。
僕はその日から勉強に力を入れ、地元では一番の高校に入った。母や叔母は、喜びつつも戸惑っていた。この子、誰に似たんやろ。
当人が自分に似ていないと思うのなら、あとはもう亡き父に似たと考えるしかない。父の記憶は僕にはない。しかし、容姿を引き継いだのは確かだ。僕の見た目はモデル級とまでは言わないが、年を追うごとにシュッとしていった。この辺りでは十分に人目を引いた。高校に入ると、色々と誘惑が増えた。
それからわずか3年ほどで、人間、できることとできないことがあるんだなと知り、将来について具体案を示さなければいけなくなった。要するに大学受験に失敗した。
田舎では個人の自由の範囲がいささか狭い。ちょっと猶予をもらって自分探し、なんてことは許されない。
一人、ベッドに倒れこんでいると、頭の中に「どうせこの子も美容師になるんやろ」が巡った。それは僕にとって呪われた一言だ。自分の行く手を阻む、忌むべき文言だった。僕は頭からそれを追い払おうとしたが、一向に去ってはくれなかった。何十回、何百回とそれは繰り返された。
すると、不思議なことが起こった。不吉だったはずの言葉は、幾度も巡るうちに、いつしか一縷(いちる)の希望を帯びていた。小さな福音にさえ聞こえた。「美容師になろう」
僕はこの瞬間のことを、いまもしばしば思い出す。これは啓示だったのか、単なる逃避だったのか。結局わからないままだ。ともかく、僕は美容師になった。20年を経た現在、おおむね後悔はない。
母が店を閉じることになった(そう、現役だったのだ)。続けられなくなったという手紙を叔母から受け取った。僕は母を東京に招こうと思った。
僕はその前年、駆け出しの頃から勤めていたサロンを退職し、自分の店を持った。マンションの一室を使った完全予約制の店だ。スタイリストは僕一人。アシスタントもおかない。客同士が顔を合わせることもない。プライバシーを何より大事にした。
今までの大所帯から離れることで、自分でやらなければならない雑務も増えたが、それよりも身軽になったことを、僕は喜んだ。
その店を今のうちに母に見てもらおうと思った。
母は案外面倒がらずにその提案を受け入れた。新幹線は東京ではなく品川で降りたほうが近いことを、何度説明しても納得しなかった(「なんでやの。あんた東京やろ」)。同行した叔母が、なんとか品川でおろした。
「えらい白いな」
それが僕の店を見た第一印象らしかった。確かに、空間全体を白く仕上げてある。それから店内を見回した。一席だけの小さなサロンなので、すぐに見終わるかと思いきや、細かいところまで検分するように視線を送った。母親として無条件に褒めようとしなかった。痩せても枯れても同業者だった。
「お客さん、ひとりだけしか入れへんのかいな」
「都会の客は、プライバシーが大事なんや。だからひとりずつしかやらない」
「へえ。なんか寂しいな。それはそうと、あんたいつまで独り者つづけるつもり?」
母にコンセプトを伝えるのは世界一難しい。
本当は、母の髪を整えてやろうという目論見があった。しかし母が逆に「あんた切ったるわ」と言い出した。
「そんなボサボサ頭でどないすんの。医者の不養生言うて笑われるで」
「これはワザとや」と抵抗したが、ダメだった。
観念して自分でタオルを巻き、クロスを着た。
「くれぐれもちょっとだけにしてくれよ」
「はいよ」
母に髪を切られるのは高1以来だ。いくらプロだとはいえ、いつまでも母親に髪を切られているのはまずいのではないかと思い、その後は隣町まで電車で通ったのだった。
「いや!」と母が大きな声を出した。
「どうした?」
「あんた、てっぺん薄なってるやん」
僕が目指すサロンからかけ離れた発言だ。
「やかましいわ。俺も40や。これでも保ってるほうや」
強がってはみたが、痛いところを突かれた。
その後、ヒヤヒヤする僕をよそに、母のハサミは軽快に動いた。
ふと、母が甘えるような声で
「あんた、いつパリに連れて行ってくれるの?自分だけ行って」
と言った。
僕は鏡越しの叔母をちらりとみた。叔母も僕の方を見て、小さく頷いた。
母は、軽度の認知症を患っていた。時折、境界がぼやけるときがあるのだそうだ。叔母からの手紙にそう書いてあった。
きっと、父と僕を混同している。覚悟していたつもりが、僕は衝撃を受けていた。泣いてしまうかと思った。
しばらくすると、母は、目の前の男が息子である認識を取り戻したようだった。
「はい一丁上がり」
母の手によって、僕の髪は全体的に“こざっぱり”された。
「あんたのとこ、カットいくらや?」
「8500円」
「いや!そんな取ってんの!」
母は大げさに驚いた後、
「まあ、そんなにくれとは言いません。4000円でええわ」と続けた。
「はあ?」
「4000円」
「金取んの?」
「当たり前やがな。仕事やで」
僕は財布から札を取り出した。
「パリの旅費の足しにするわ」
「パリ行くの?」
「行けたらええなあ思ってんねん。あんた、行ったことあるんやからパリの案内頼むで」
僕はパリには行ったことがない。どうやらまた、父になったようだった。叔母がそっと目頭を抑(おさ)えた。
母が、床に落ちた僕の髪を箒で掃きながら、ポツリと言った。
「美容院のお客さんって、さらけ出してはるねん。白髪もハゲも天パも。なかなかのことやで」それは僕も常々思っている。
「そやから、愚痴のひとつも聞いたらなあかんで」
「うん。わかってる。俺かて20年やってるし」
「こんな真っ白な部屋で、愚痴言えるか?」
「壁の色関係ないやろ」
「絵、描いたろか?」
「やめてくれ」
僕は、母が人の愚痴、痴話、与太を聞き続けるのを、ときに苦々しく思ったものだった。しかし、母は受け止めていた。受け止め切ったのだ。
母の言葉は、意識は、これからどうなっていくだろう。それを僕は受け止められるだろうか。
僕はまず、白い壁の片隅に、母の好きな花の絵を描こうと決めた。母が好きなものを描いていこうと思った。
了
文/大澤慎吾