弟は怒っていた。
彼女に、弟と別れるよう迫ったのだから当然だろうか。
申し訳ない気持ちと、やっぱり割り切れない気持ちが混じり合っていた。
弟は22歳。立派な大人だ。身長は私が高2の時に抜かれ、最終的には20センチ近い差をつけられた。
どちらかというと内向的な私と違い、社交的で友達が多い。まあまあ大きな会社に就職が決まっている。私より何かと器用だ。
それでも、どこまでいっても4つ違いの弟なのだ。赤ちゃんだった頃を知っているのだ。オムツだって2、3回変えたことがあるのだ。可愛がるべき小さき者なのだ。こんな気持ち、弟には決してわからないだろう。
「俺もう嫌なんだよ。なんか適当に女と付き合うの」と弟は言った。
今まで適当に女と付き合っていたのか。それはひどい。でもよりによって植木花の順番で改心しなくても、と私は思う。
「あいつのことは放っておけない」
出た。啓示かなんか受けたつもり?勘違いだよそれ。
私は心の中でいちいち悪態をついた。
「それからなんとかって言う教授。あいつ気をつけた方がいいよ」
鳴滝先生のことだろう。自分だってあることないこと吹き込まれてるんじゃないの。
気をつけろとはどういう意味かを問いただす前に、弟は再び黒いスニーカーを履いて外に出てしまった。どうせあの子の家に行くのだろう。
ひとり残されるとだんだん腹が立ってきた。母も、弟も、みんな出て行く。モナカとゴマを見たらなんだか泣きそうになった。それなのに、お腹が空いてきた。いろんな気持ちが押し寄せてきて苦しかった。
叫ぶのは近所迷惑なのでダメだ。代わりに体を動かした。伸ばした両手を頭上で合わせ、足を前後に大きく開く。雰囲気だけヨガっぽいポーズをとったら、いんちきのわりに案外呼吸が整った。
それから閉店間際のパン屋に駆け込み、残っていた菓子パンを根こそぎ買った。
遅くになって、父が帰ってきた。久しぶりに会う同期の人たちと気持ちよく飲んだみたいだ。
「みんな、まだ子供がちっちゃいんだよな。木村のところなんてまだ幼稚園に入ったばかりだってさ」
50前で子供がふたりとも成人しているなんて、うちが特殊なのだと思う。
「コーヒー淹れようとしてたんだけど、パパも飲む?」
「そうだな。あ、もう少しだけウィスキーにするわ。まだ有るよね」
この家にある強い酒を飲むのは父ひとりなので、全然減らない。長らく棚の一角を酒瓶が占めている。
氷の入ったグラスと重そうな瓶を傍らに置くと、父はソファーに身を沈めた。
そして「今日は圭がいない番か。君らも忙しいね」と呟いた。
前日、急に家を空けた。私らしくない行動だった。弟がいないのは珍しくもない。
「圭の放浪癖はママに似たんだな」
父が打ち明け話のようなトーンで言った。小声なのに、どこか弾んでいる。
「そう?ママって家にいるじゃない、いつも。まあ今はあれだけど」
「背が高いのは俺に似たけど、顔なんかママそっくりだろ。あれはやっぱり中身が似てるんだよ」
私の問いには答えず、父は話し続ける。
「ママはね、いなくなる人だったんだ」
鳴滝先生に言われた「漂泊」という言葉が蘇った。
「いなくなる人」
「うん。時々何も言わずにいなくなるんだよ。で、何事もなかったかのように帰ってくる」
「そんなの全然知らないんだけど」
「そりゃまあ君らが生まれる前の話だから」
父と母とは大学の同級生だ。
「どこで何をしてきたのか、いくら聞いても教えてくれない。いまだに知らない。でもそこがよかった」
親の恋愛話ほど、むず痒いものもない。
それに母がそんな面倒くさい女子だったとは信じられない。でも、若いうちは面倒くさい女ほどモテるのは確かだ。男ってバカなのだろう。
「ママね、本当はひとり旅なの」
言ってしまった。
コポコポと心地よい音をさせて2杯目を注ぐ父は、どこか安心した様子にさえ見えた。
ボトルの蓋をポンっと叩いて
「だろうね。まあ、いつかはどこかに行くかも知れないなと思っていたよ。俺が無理やり家に縛り付けたようなものだからなあ」
などと言っている。男の美学か痩せ我慢か知らないが、それでいいのか。
「これ見て」
思い切って母のインスタを、父に明かした。
「知らなかったよね?」
父はうなずき、母の旅の断片を拾った。ところどころ、フフッと笑いを漏らした。
一通り見た後、「このコメント、君?」と私に尋ねた。確かに何度かコメントしたことがある。
「わかる?」
「わかるよ」
恥ずかしい。
改めて父の横顔を見る。太い眉が、以前より伸びている。
家族のために、ひたすら仕事をする人。それが父だ。離れて暮らすようになると、仕事人間のイメージだけが重ね塗りされていった。
しかし今日ここにいる父は、私が知っている父とはどこか違う。なんというか、父本人だった。思えば母というフィルターを抜きにして、父を見たことがなかった。
「圭の彼女だけどね」
父が話を変えた。
「なかなか苦労している子みたいだ。圭は酒が入ると語りたがるタイプなんだな、意外と」
前の晩、父と弟は居酒屋で飲んでいたのだった。
「へえそうなんだ」
植木花の話題に、つい口調が冷たくなる。
「まあ、せいぜい頑張れ」
父は、弟が目の前にいるかのように言った。
苦労って何。気にならなくはなかったが、聞くのも癪(しゃく)だった。
だいたい苦労している子を好きになるのって、なんだかすごく不純な気がした。坊ちゃん育ちの後ろめたさを、人の苦労を引き取ることで贖(あがな)おうとしていないか。
男ってやっぱりバカだ。この夜の私の結論だった。
金曜の早朝、父が成田へのタクシーに乗り込むのを見送った。オランダに戻るのだ。
しばらく前に、同じ場所から母のタクシーを見送ったのを思い出した。母はどこに向かうか決めずに出て行った。本当は心に何かを秘めていたのか。
早起きしたものの、二度寝するほどの余裕はなかったので、足の爪を整えた。いつもより赤い色にしてみた。
「足の爪の形がパパとそっくりなのよね」
まだ自分で爪が切れない子供の頃、母が言った何気ない一言。足の爪を触るたび、その言葉を条件反射のように思い出す。
でも、よく考えてみれば、母は夫の足の爪までしっかり記憶していたということか。きっとそれは愛情だと思った。
海野くんの足の爪を、私は全然覚えていない。
まだ時間があったのでインスタを開くと、新しい投稿があった。
「金沢に来ました。30年近く私の心にとどまる場所です。雨です。今年は雪が遅いようです。たれ込める雲が、鮮やかな朱色を引き立てています」
趣ある町並みが写っていた。金沢という街に、私は妙な緊張感を覚えるようになっていた。
「いつも素敵なところを旅していますね。金沢にはどれくらい滞在するのですか?」
父にすぐ見破られたのが気にかかるが、私はコメントを送らずにいられなかった。そのあと軽く虚脱した。
気づけば、出勤の時間を少し過ぎていた。慌てて家を出た。
講義の合間の休み時間に、鳴滝先生と植木花が話しているのを見かけた。同じ学科の学生なのだから、本来おかしなところはない。でも私は反射的に目をそらし、ぶざまに回れ右をした。植木花、早く卒業してくれないかな。
そんな私の気持ちなど、誰も知るわけがない。
昼休みに、鳴滝先生が音もなくやって来た。
「鴨下さん、お疲れ様です」
憎らしいほど、物腰が柔らかい。
「妻が、鴨下さんにまた会いたいと言っています。今日ご都合いかがですか?」
私のどこを気に入ったのかさっぱりわからないが、嬉しくないわけじゃない。それに家で弟とふたりきりも気詰まりだ。
「お邪魔でなければ。あ、なんか図々しくてすみません」
「こちらが勝手にお誘いしていることです。すみませんなんて言わないでください。どうもありがとうございます」
そう言うと、鳴滝先生はふわりと体を翻(ひるがえ)して歩き去った。
日が暮れた中央道を西に向かっている。先生の腕がいいのか、ベンツの性能がいいのか、ひたすら滑らかに車は進む。
スピーカーから、ビリー・アイリッシュの静かなのに強い声が流れている。
「今日は鴨下さんの好きな曲をかけてもらえませんか?」
と言って、先生は私のスマホを車に繋いだ。
「確か彼女はまだ10代ですよね。恐るべき才能です」
先生はなんでも知っていた。このアルバムが終わったら、次何を流せばいいのだろう。先生に下手なものは聞かせられないと、ひとり焦る。
「お母さんは、その後どうされましたか?」
「あ、飛騨から金沢に入ったようです。インスタにあがっていました」
「金沢にはいい季節ですね」
スマホを手に取り、その後の母を探る。
新たな投稿があった。
お寿司の写真だった。ツヤの美しい白身の魚だった。母が食事中に写真を撮るのがあまりイメージできなかった。本人にも自覚があるのか写真は1枚きりだった。
何よりも、母が寿司屋に入るのが意外だった。梅ヶ丘での母は、納豆巻きやかんぴょう巻きばかり食べている。私はこれでいいの、と言って。
「おいしくて、魂のこもった味でした。私も生まれ変われそうです」
添えられたキャプションを見て、なぜか頭の奥がツーンと痛くなった。
朝の私のコメントに返事はない。
いつ終わったのか、もう車内に音楽は流れていなかった。
母が、どこかに行く気がした。
捕まえに行かなければ。
「先生、車の運転お好きですか?」
「ええ、ほどよい緊張が大好きです」
「お願いしたいことがあるのですが…」
先生は微笑みながら横目で私を見、続きを促すように軽く首を傾げた。
文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ