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COLUMN

2019.12.16

ひとり残されるとだんだん腹が立ってきた。母も、弟も、みんな出て行く。いろんな気持ちが押し寄せてきて苦しかった。(第7話)

弟は怒っていた。

彼女に、弟と別れるよう迫ったのだから当然だろうか。

申し訳ない気持ちと、やっぱり割り切れない気持ちが混じり合っていた。

弟は22歳。立派な大人だ。身長は私が高2の時に抜かれ、最終的には20センチ近い差をつけられた。

どちらかというと内向的な私と違い、社交的で友達が多い。まあまあ大きな会社に就職が決まっている。私より何かと器用だ。

それでも、どこまでいっても4つ違いの弟なのだ。赤ちゃんだった頃を知っているのだ。オムツだって2、3回変えたことがあるのだ。可愛がるべき小さき者なのだ。こんな気持ち、弟には決してわからないだろう。

「俺もう嫌なんだよ。なんか適当に女と付き合うの」と弟は言った。

今まで適当に女と付き合っていたのか。それはひどい。でもよりによって植木花の順番で改心しなくても、と私は思う。

「あいつのことは放っておけない」

出た。啓示かなんか受けたつもり?勘違いだよそれ。

私は心の中でいちいち悪態をついた。

「それからなんとかって言う教授。あいつ気をつけた方がいいよ」

鳴滝先生のことだろう。自分だってあることないこと吹き込まれてるんじゃないの。

気をつけろとはどういう意味かを問いただす前に、弟は再び黒いスニーカーを履いて外に出てしまった。どうせあの子の家に行くのだろう。

ひとり残されるとだんだん腹が立ってきた。母も、弟も、みんな出て行く。モナカとゴマを見たらなんだか泣きそうになった。それなのに、お腹が空いてきた。いろんな気持ちが押し寄せてきて苦しかった。

叫ぶのは近所迷惑なのでダメだ。代わりに体を動かした。伸ばした両手を頭上で合わせ、足を前後に大きく開く。雰囲気だけヨガっぽいポーズをとったら、いんちきのわりに案外呼吸が整った。

それから閉店間際のパン屋に駆け込み、残っていた菓子パンを根こそぎ買った。

 

遅くになって、父が帰ってきた。久しぶりに会う同期の人たちと気持ちよく飲んだみたいだ。

「みんな、まだ子供がちっちゃいんだよな。木村のところなんてまだ幼稚園に入ったばかりだってさ」

50前で子供がふたりとも成人しているなんて、うちが特殊なのだと思う。

「コーヒー淹れようとしてたんだけど、パパも飲む?」

「そうだな。あ、もう少しだけウィスキーにするわ。まだ有るよね」

この家にある強い酒を飲むのは父ひとりなので、全然減らない。長らく棚の一角を酒瓶が占めている。

氷の入ったグラスと重そうな瓶を傍らに置くと、父はソファーに身を沈めた。

そして「今日は圭がいない番か。君らも忙しいね」と呟いた。

前日、急に家を空けた。私らしくない行動だった。弟がいないのは珍しくもない。

「圭の放浪癖はママに似たんだな」

父が打ち明け話のようなトーンで言った。小声なのに、どこか弾んでいる。

「そう?ママって家にいるじゃない、いつも。まあ今はあれだけど」

「背が高いのは俺に似たけど、顔なんかママそっくりだろ。あれはやっぱり中身が似てるんだよ」

私の問いには答えず、父は話し続ける。

「ママはね、いなくなる人だったんだ」

鳴滝先生に言われた「漂泊」という言葉が蘇った。

「いなくなる人」

「うん。時々何も言わずにいなくなるんだよ。で、何事もなかったかのように帰ってくる」

「そんなの全然知らないんだけど」

「そりゃまあ君らが生まれる前の話だから」

父と母とは大学の同級生だ。

「どこで何をしてきたのか、いくら聞いても教えてくれない。いまだに知らない。でもそこがよかった」

親の恋愛話ほど、むず痒いものもない。

それに母がそんな面倒くさい女子だったとは信じられない。でも、若いうちは面倒くさい女ほどモテるのは確かだ。男ってバカなのだろう。

「ママね、本当はひとり旅なの」

言ってしまった。

コポコポと心地よい音をさせて2杯目を注ぐ父は、どこか安心した様子にさえ見えた。

ボトルの蓋をポンっと叩いて

「だろうね。まあ、いつかはどこかに行くかも知れないなと思っていたよ。俺が無理やり家に縛り付けたようなものだからなあ」

などと言っている。男の美学か痩せ我慢か知らないが、それでいいのか。

「これ見て」

思い切って母のインスタを、父に明かした。

「知らなかったよね?」

父はうなずき、母の旅の断片を拾った。ところどころ、フフッと笑いを漏らした。

一通り見た後、「このコメント、君?」と私に尋ねた。確かに何度かコメントしたことがある。

「わかる?」

「わかるよ」

恥ずかしい。

改めて父の横顔を見る。太い眉が、以前より伸びている。

家族のために、ひたすら仕事をする人。それが父だ。離れて暮らすようになると、仕事人間のイメージだけが重ね塗りされていった。

しかし今日ここにいる父は、私が知っている父とはどこか違う。なんというか、父本人だった。思えば母というフィルターを抜きにして、父を見たことがなかった。

「圭の彼女だけどね」

父が話を変えた。

「なかなか苦労している子みたいだ。圭は酒が入ると語りたがるタイプなんだな、意外と」

前の晩、父と弟は居酒屋で飲んでいたのだった。

「へえそうなんだ」

植木花の話題に、つい口調が冷たくなる。

「まあ、せいぜい頑張れ」

父は、弟が目の前にいるかのように言った。

苦労って何。気にならなくはなかったが、聞くのも癪(しゃく)だった。

だいたい苦労している子を好きになるのって、なんだかすごく不純な気がした。坊ちゃん育ちの後ろめたさを、人の苦労を引き取ることで贖(あがな)おうとしていないか。

男ってやっぱりバカだ。この夜の私の結論だった。

金曜の早朝、父が成田へのタクシーに乗り込むのを見送った。オランダに戻るのだ。

しばらく前に、同じ場所から母のタクシーを見送ったのを思い出した。母はどこに向かうか決めずに出て行った。本当は心に何かを秘めていたのか。

早起きしたものの、二度寝するほどの余裕はなかったので、足の爪を整えた。いつもより赤い色にしてみた。

「足の爪の形がパパとそっくりなのよね」

まだ自分で爪が切れない子供の頃、母が言った何気ない一言。足の爪を触るたび、その言葉を条件反射のように思い出す。

でも、よく考えてみれば、母は夫の足の爪までしっかり記憶していたということか。きっとそれは愛情だと思った。

海野くんの足の爪を、私は全然覚えていない。

まだ時間があったのでインスタを開くと、新しい投稿があった。

 

「金沢に来ました。30年近く私の心にとどまる場所です。雨です。今年は雪が遅いようです。たれ込める雲が、鮮やかな朱色を引き立てています」

趣ある町並みが写っていた。金沢という街に、私は妙な緊張感を覚えるようになっていた。

「いつも素敵なところを旅していますね。金沢にはどれくらい滞在するのですか?」

父にすぐ見破られたのが気にかかるが、私はコメントを送らずにいられなかった。そのあと軽く虚脱した。

気づけば、出勤の時間を少し過ぎていた。慌てて家を出た。

 

講義の合間の休み時間に、鳴滝先生と植木花が話しているのを見かけた。同じ学科の学生なのだから、本来おかしなところはない。でも私は反射的に目をそらし、ぶざまに回れ右をした。植木花、早く卒業してくれないかな。

そんな私の気持ちなど、誰も知るわけがない。

昼休みに、鳴滝先生が音もなくやって来た。

「鴨下さん、お疲れ様です」

憎らしいほど、物腰が柔らかい。

「妻が、鴨下さんにまた会いたいと言っています。今日ご都合いかがですか?」

私のどこを気に入ったのかさっぱりわからないが、嬉しくないわけじゃない。それに家で弟とふたりきりも気詰まりだ。

「お邪魔でなければ。あ、なんか図々しくてすみません」

「こちらが勝手にお誘いしていることです。すみませんなんて言わないでください。どうもありがとうございます」

そう言うと、鳴滝先生はふわりと体を翻(ひるがえ)して歩き去った。

 

日が暮れた中央道を西に向かっている。先生の腕がいいのか、ベンツの性能がいいのか、ひたすら滑らかに車は進む。

スピーカーから、ビリー・アイリッシュの静かなのに強い声が流れている。

「今日は鴨下さんの好きな曲をかけてもらえませんか?」

と言って、先生は私のスマホを車に繋いだ。

「確か彼女はまだ10代ですよね。恐るべき才能です」

先生はなんでも知っていた。このアルバムが終わったら、次何を流せばいいのだろう。先生に下手なものは聞かせられないと、ひとり焦る。

「お母さんは、その後どうされましたか?」

「あ、飛騨から金沢に入ったようです。インスタにあがっていました」

「金沢にはいい季節ですね」

スマホを手に取り、その後の母を探る。

新たな投稿があった。

お寿司の写真だった。ツヤの美しい白身の魚だった。母が食事中に写真を撮るのがあまりイメージできなかった。本人にも自覚があるのか写真は1枚きりだった。

何よりも、母が寿司屋に入るのが意外だった。梅ヶ丘での母は、納豆巻きやかんぴょう巻きばかり食べている。私はこれでいいの、と言って。

「おいしくて、魂のこもった味でした。私も生まれ変われそうです」

添えられたキャプションを見て、なぜか頭の奥がツーンと痛くなった。

朝の私のコメントに返事はない。

いつ終わったのか、もう車内に音楽は流れていなかった。

母が、どこかに行く気がした。

捕まえに行かなければ。

「先生、車の運転お好きですか?」

「ええ、ほどよい緊張が大好きです」

「お願いしたいことがあるのですが…」

先生は微笑みながら横目で私を見、続きを促すように軽く首を傾げた。

 

文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ