「恋愛の亡霊」がうごめくのを確かに感じた。(第8話)
鳴滝先生の体力が心配になってきた。
自分でやらせておいて、勝手な話だ。
何しろ5時間ほどぶっ続けで運転させている。間も無く日付が変わろうとしていた。
別荘のある八ヶ岳を素通りして、車は金沢を目指している。
ハンドルを握る先生を見ると、綺麗に撫で付けられた髪が、さすがに乱れつつあった。目元に疲れがみてとれた。
こんなことになっても、鳴滝先生は私に文句ひとつ言わない。すごい人だ。
「レッドツェッペリンをかけてください。サードアルバムでお願いします」
車内の音楽は先生のライブラリに戻っていた。先生の注文を受けて、私は曲を探した。膨大な曲数だった。そのほとんどを私は知らなかった。
スピーカーから爆音のイントロと、男か女かもわからない絶叫が流れてきた。これがレッドツェッペリンらしい。私にはちょっと良さがわからない。
弟には「モナカとゴマのごはんお願い」とだけ送っておいた。植木花のことで険悪になってから、まともに口をきいていない。
鳴滝先生の運転で母を探しに金沢に向かっていると知ったら、弟は私の正気を疑うだろう。
ネットからなんとか宿は取れた。金沢駅近くのホテル。もちろん別々の部屋である。
先生の講義はいつも人気だ。その柔らかな声を真夜中の車内で独り占めしているのだから、贅沢な話かもしれない。
「鴨下さんのお母さんの一人旅に関して、決して不安をあおる訳ではありませんが」
と前置きした上で先生は続けた。
「50歳頃から僕は再び恋愛に向き合えるようになりました」
「はあ」間の抜けた声が出た。
「必ずしも具体的行動を伴うとは限りませんよ」
恋愛における具体的行動。私の得意分野とは到底言い難い。しかも、それを伴わないとなれば、ますますわからない世界だ。
「こう言っては何ですが、昔から異性に好かれるタイプでした。それこそ幼稚園に入った頃から、気づいていました」
眠気覚ましのつもりもあるのか、先生にしては身も蓋もない言い方だった。
「それが40歳を過ぎたあたりで、むなしくなった」
「私はモテたことがありません」
つい情けない告白をしてしまった。
「ふむ。そうは思えませんが」
優しい。
「僕は当時すでに結婚していましたから、そもそも破綻した話であることは理解しています。でも文学者が破綻しているのは、これはもう道理です」
鳴滝先生が言うと、正しく聞こえるからずるい。
「僕たち夫婦には子供がいません。子を持たない選択をしたことになっていますが、それは後からつけられた理由に過ぎません」
素敵な文さんの顔が浮かんだ。今夜、別荘に行かなかったことを、先生はどう説明するのだろう。
「そこに至る過程で、僕の恋愛は死んだ。しかし、妻の気持ちを考えれば、それは瑣末(さまつ)な話です。僕以上に彼女は子供を欲していましたから」
私はなんと相槌を打っていいかわからなかった。先生は話すのをやめない。
「しかし、たとえ子に恵まれたとしても、恋愛は死んだでしょう。恋愛に勝るものが生まれるわけですから。つまりこの世には、恋愛の亡霊が無数にさまよっているのです。それに気づいたら、また恋愛に向き合えるようになりました。皮肉なことに」
恋愛の亡霊。白い装束の大人たちが空中を漂う姿を想像した。その中に母の顔もあった。私は自分の頬を軽く叩いて、その安っぽいイメージを頭から消し去ろうとした。
「少し喋り過ぎましたね。金沢までもう一息です」
先生はそう言うと、前方を見据えた。ハンドルを握る手に、いつもより力がこもっているように見えた。
翌朝7時前に、ホテルの部屋で目が覚めた。寝付けないかと思っていたが、ぐっすりだった。カーテンを開けると、東の低い空に、顔をのぞかせたばかりの太陽が見えた。その上に覆いかぶさるように、分厚い黒雲が広がっていた。
朝食付きだったので、一階のレストランに行ってみた。すると、鳴滝先生が本を片手にコーヒーを飲んでいた。すでに食事を終えたようだ。私は最低限の身支度しかしてこなかったのを悔やみつつ、
「おはようございます」
と、声を掛けた。
「おはようございます、鴨下さん」
と、先生はにこやかに言った。
「ゆっくり休めましたか。助手席って案外疲れるものですから」
「先生こそ、お疲れ様でした。と言うか本当にすみません。変なことに巻き込んでしまって」
「いいえ、楽しい週末になりそうです」
母に会いたいとの一念で、衝動的に金沢までやってはきたが、さてどうしたものか。
素直に考えれば、母にすぐ電話をすべきなのだろう。でも、それをよしとしない気持ちが、私の内にあった。
母のインスタの一文、生まれ変われそうです、とはどういう意味なのだろうか。父が母の旅を知って、むしろ安心していた様子なのはなぜか。先生の言う、恋愛の亡霊とは。
大人たちが寄ってたかって私に難問を投げかけた。
それを簡単に片付けてしまっていいのか。
「まず寿司屋を探しましょうか」
先生が楽しげに言う。
「でも、お店の名前も何もあがっていないんです」
「写真を手掛かりにしましょう」
「1枚しかありませんよ」
「1枚の写真からどこまで読み取れるか。面白いじゃないですか」
先生はにっこりと笑った。
母があげたお寿司の写真を、先生に見せた。
「これは“のどぐろ”ですね。最近でこそ東京でも見かけますが、何と言っても金沢の名物です。看板のネタだけに、どこも趣向を凝らしているはずです。この写真では、うっすらと炙っているように見えますね。そこに刷毛で煮切りが塗ってある。その上に芽ネギが2本。そして寿司が置かれた付け台を見てください。白木を用いるのが一般的ですが、この店の付け台は黒い漆塗りです」
「探偵みたいですね」
私は思わず声を漏らした。
「書物を読み解くのは、探偵のようなものです。作者も気づいていないようなことまでほじくり出すのが我々の仕事ですからね」
先生はそう言って、自分のスマホを取り出した。
「推理としてはあまり情緒がありませんが、やむを得ません。使えるテクノロジーは使いましょう」
先生は長い指で軽やかに画面を操った。ものの1分ほどで「これなんか近いのではありませんか?」と、画像検索の結果を見せてくれた。
確かに、母の写真とよく似ていた。寿司のツヤ、背景の漆もそっくりだった。
「ほんとだ。ここですね、きっと」
行ってどうなるのか。それは行ってから考えよう。降って湧いた妙な旅を、私は楽しみ始めていた。
寿司屋のお昼までは、まだまだ時間がある。
「車で回るのも味気ないですね」先生の言葉に従い、散歩することになった。
朝の街に、身構えていたほどの寒さはなかった。今年は雪が遅いと、母のインスタの言葉を思い出す。
空が目まぐるしい。少し下を向いていると、あっという間に雲の形が変わった。太陽と雨雲が絶えずせめぎ合っていた。
駅から伸びる大通りに、人の姿はまばらだった。私は初めての金沢だが、先生は何度か来たことがあるようだった。
「もう何十年も前です。もっと変わっているかと思いましたが、案外そうでもないですね。もちろん道や建物は新しくなっているのですが、大事なところは変わっていない気がします」
先生はそう言って空を見上げた。天気雨が落ち始めた。
9時にもならないので、開いている店はほとんどなかった。傘を持たない私たちは、かすかな雨に濡れながら歩いた。鳴滝先生の柔らかそうなウールのコートは、どう考えても雨に良くなさそうだが、気にする様子は全くなかった。
「ここの城跡はなかなかいいですよ」と先生に誘われるまま、金沢城址に踏み入った。無理な復元がされず、石垣だけが残された広大な敷地には、私たち以外誰ひとり歩いていなかった。母を見つけるのは無理だと言われているような気がした。
「隣の兼六園には大勢いるのでしょうが、僕はこちらの方が好きです」と先生は言った。
「先生はどうして私と歩いてくれるのですか」
聞かなくてもいいことを聞いた。
「楽しいからですよ、もちろん」
先生はいつも優しい。その口調は、そぼふる雨のように柔らかだった。横顔に広がる微笑みは、私にではなく、この金沢の街全部に向けられたような気がした。埋めようのない距離を感じ、私は勝手に落ち込んだ。
城跡を出ると、ようやく街が動き始めていた。古い喫茶店に入った。
先生に一言ことわって、母のインスタをチェックした。新しい投稿があった。
夕闇の街並みが切り取られていた。
「大切な人に会えました。変わったことと変わらないこと。どちらも確かにありました。私の重心は傾いていきます」
スマホを持つ手に力が入らなくなった。
「先生、母がこんなこと書いてるんですけど」
すがるような声が出た。
私からスマホを受け取った先生は、画面に視線をやった後、
「僕に任せてください」
と、いつになく力強く言った。
その寿司屋は、小さな飲食店が立ち並ぶ小路の、とりわけ奥まった場所にあった。何度か見落とし、行ったり来たりの末にようやく見つけた。
鳴滝先生と一緒でなければ、とても入れない。黒い板塀に真っ白な暖簾が、凛と美しかった。
中は10席に満たないようなカウンター。その向こうで、丸刈りに近い短髪の主人が、寿司を握っていた。
常連さんとの会話を楽しみつつも、その目は適度な緊張感を保っているようだった。両親と同年輩に見えるのは予想通りだ。
この人に会うために、母は金沢にやってきたのだろうか。主人を正視するのも辛いはずが、無駄のない包丁さばきや、酢飯を手に取る動きなどの美しい所作にいつしか目を奪われていた。
お店を手伝う女性がひとりいた。主人より若そうだ。
味は素晴らしかった。罰があたるのではないかと思えるほどだった。瞬間、何をしに来たのか忘れそうになる自分を戒めた。
「ご主人、とてもおいしいです」
隣の鳴滝先生が、するりと声をかけた。
「ありがとうございます」と、主人がにこやかに頭を下げた。
「東京から車を飛ばしてきた甲斐がありました」
「それはそれは遠いところを。新幹線が開通したこと、東京じゃまだ知られてないのかな」
「運転中、急に思い立ちましてね」
先生と主人は軽やかに会話を交わした。
「遠方からのお客さんも多いでしょう?」
「おかげさまで。交通の便が良くなりましたからね。私若い頃は東京にいたんですが、当時とはえらい違いですよ」
「東京で修業なさったとか?」
「いえ、次男坊の私は寿司屋を継ぐ気はなくて、東京で大学生をやっていました。ところが後継ぎだった兄貴が事故に遭って。それで私は中退して金沢に戻りました」
「そうでしたか」
私が明かすより前から、母の行き先が金沢だと父は考えていた。父もこの主人を知っているのだ。
鳴滝先生の言う「恋愛の亡霊」がうごめくのを確かに感じた。
文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ