「寿司、買って来てよ」
と、父が言った。
駅前に寿司屋がある。何十年も前からあるらしい。味の割に手頃な値段で知られている。
私が梅ヶ丘に住んでいると聞いた人は、結構な確率で「あ、お寿司屋さんの」と言う。行列が絶えないから、近所の人間は持ち帰りにすることが多い。
「ヨーロッパの日本食もだんだんレベルは上がってきてるけどね。やっぱり寿司は日本で食べたい」
父の言い分は理解できる。時間もちょうど夕飯時だ。
でも、それってつまりこの植木花と食卓を囲むと言うことなのか。
「あ、でも花は生魚ダメちゃうん?」
弟が口を挟んだ。また関西弁。
「ああ、そうなの?じゃあ寿司じゃなくてもいいよ」
と父が言う。
男二人の気配りが厚い。
植木花は、両手をブルンブルン振りながら、
「違うんです。全然大丈夫ですよ。光り物っていうんですか?青い魚だけちょっと苦手なんです。でも気にしないでください。マグロとかイクラとかは好きですから」
と言った。遠慮しているつもりなのか何なのか。
「ならよかった。じゃあ頼むよ」
と、父は私に1万円札を握らせた。
この場から離れられるのをありがたく感じる一方で、なぜ私が行かなきゃなんないのよ、とも思った。アジとコハダばっかり買ってきてやろうか。
今季一番の寒気が来ていると、ニュースに出ていた。外はぐんと気温が下がっていた。ストールを取りに戻ろうかとも思ったが、早く終わらせたいので我慢した。
ここ数年、小田急線の大規模工事が続いていた。梅ヶ丘も急行が止まらない駅とは思えないほど立派に生まれ変わった。
駅を囲むようにスーパーが3軒建っている。あとは昔からある控えめな商店街。ケーキ屋も洋食屋もクリーニング屋も店構えは何も変わらない。ラーメン屋だけがどんどん入れ替わる。
寿司屋の持ち帰りコーナーで、適当な量を買って帰った。母はいつも自分用に納豆巻きをプラスする。今日はその必要はない。でもなんとなく一本追加した。
多少賑やかなのは駅前だけで、あとはただひたすら住宅が立ち並ぶばかり。落ち着いたいい町だとは思う。でも朝から晩までここで過ごすのは少々退屈かもしれない。母は毎日どう思って過ごしていたのだろう。
植木花は饒舌だった。父と弟を相手によく喋った。
猫たちは2階から下りてこなかった。父にはもともと懐いていない。加えて初対面の人間の声がする。警戒しているのだろう。
「子供の頃から英語圏の知り合いが多かったんです。それで割と英語は得意で、そのまま英文学やっています」
「シェイクスピアだってさ」
「ほう。どこか海外で生まれたとか?」
「いえ、出身は西宮です。兵庫県の。芦屋とか宝塚の隣なんですけど、わかりますか?」
「甲子園のあるところでしょ?」
父が言った。
「はい。でも甲子園球場は海の方で、私は山側だからエリアが離れてるんですけどね」
「ああそう。その辺りって高級住宅地のイメージだなあ」
「いえいえ、そんなことないですよ」
そんなことありますよ、と言っているように聞こえた。やっぱり弟の気持ち悪い関西弁の元凶はここだったか。その割に本人は訛りを隠しているのか、標準語だ。
弟がボソッと「尼崎も隣だよね」と言ったのを、植木花は無視した。
「お姉さんは大学の頃、サークルとかって入ってたんですか?」
ウニの軍艦巻きに慎重に醤油をつけようとしていたら、「お姉さん」と声をかけられたので慌てた。酢飯が醤油でドボドボになった。
「あ、はい、書道サークルに」
「へえ。書道ですか。大和撫子って感じですね」
植木花の顔をしっかり正面から見てみた。綺麗な顔立ちではあるが、微かに左右の目の光り方が違う。一種の色気とも受け取れるが、長く見ているとどこか不安な気分にさせられる。
「でも和と洋で、鳴滝先生とお話、噛み合いますか?」
花は、挑むような視線を一瞬取り戻してみせた。
肩がビクッと震えそうだったが、なんとかこらえた。私は昔から口喧嘩が弱い。
「仕事ですから。そこは問題ないですよ」
私はお寿司の乗った丸皿に目を落としながら答えた。納豆巻きが引き取り手のないまま乾きつつあった。
「そうですよね。一緒にお食事に行くくらいですもんね」
私は思わず顔を上げた。
植木花の口元に広がるそれが微笑みなのか、憎しみなのか、私には判断がつかなかった。
夕食が終わり、植木花は父に礼を言ったあと、コートを羽織った。弟は「駅まで送る」と言って一緒に出て行った。
あの子が使った箸や皿だけ、うちの食器じゃないみたいによそよそしく感じられた。よく洗った。
植木花は、私と鳴滝先生が食事をしたことを知っていた。レストランは学校から離れた場所にあった。偶然見かけるのは無理がある。ならば、あとをつけたのか。でも私たちは車だったからそれも難しいはずだ。
では、先生から聞いたのだろうか。そんな会話をするとなれば、二人はどんな関係なのか。私はどういう登場人物なのか。
そして、弟とはどのようなつもりで付き合っているのだろう。弟を傷つけるのは、許さないからね。さっきまであの子の目に怯えていたことを棚に上げて、虚勢をはる。
父はリビングのソファーで仕事用のパソコンを開きながら、
「圭が彼女を紹介してくれたのは初めてだな」
と、父親っぽい感慨を述べている。好印象だったのだろうか。
そしてしばらく黙った後、
「ママの行き先、金沢じゃないんだよね」
と、独り言のような調子で言った。
「え?北海道だよ」
それは本当だ。でも友達と一緒と言ったことで、私の答えは嘘になった。
弟はまだ戻らない。駅までの往復にしては時間がかかりすぎている。
父は、パソコンをしまうと、
「君らと飲み直そうかと思ったけど、さすがに疲れてるな。先に寝るわ」
と言って寝室に消えた。
金沢がどうしたのだろう。これまで母が話題に上らせた記憶はない。父母にとって何か特別な場所なのか。
月曜になった。父は久々の東京で勝手が違うのか、かえって準備に手間取り、慌ただしく家を出て行った。私も仕事があるので、母の代わりをしてあげられなかった。
井の頭線に乗り換えると、植木花に遭遇しないか、つい車内でキョロキョロしてしまう。
中学2年のある日、先輩グループに身に覚えのないことで言いがかりをつけられた。彼女らが卒業するまで、息を潜めて学校生活を送る羽目になった。その時の苦々しさを思い出した。大人になってもこれか。
私の部署は、学生と直接やり取りする機会は多くない。それがせめてもの救いだ。
間もなく仕事が終わろうという時間に、
「鴨下さん」と後ろから呼ばれた。
鳴滝先生が立っていた。
「少しお時間ありますか?」
食事以来、先生の声のニュアンスを聞き分けようとしてしまう。仕事熱心なわけではない。名付けようのない気持ちが私の奥から湧いてくる。
「はい。大丈夫です」
作ったように平板な声が出た。
気がつけば、助手席のシートに身を沈めている。たかだか二度目のくせに、慣れたような顔の自分が少し意外だ。植木花に怯えていた私はどこに消えたのか。むしろ、私が先生の車に乗るところを、彼女が見ていればいいのに、とさえ思った。
今日の車内にはピアノ曲が低く流れていた。タイヤが路面を捉える音と静かに交じり合った。
どこに向かっているのかを私は聞かない。先生も何も言わない。我慢比べだ。
車は首都高に入った。声を出しそうになるが、こらえた。
先生の方をちらりと見た。端正な横顔はリラックスしていて、感情が読み取れない。ハンドルを握る手には見事なほど力感がない。
首都高はやがて中央道に接続した。子供の頃、よくキャンプに出かけた。富士五湖周辺が多かった。中央道はキャンプの記憶。つまり家族の記憶だ。
「母が、家を出たんです」
つい口走っていた。
「おや、それは大変。どうされました?」
先生は言葉とは裏腹に、落ち着いた調子で言った。
「いえ、旅に出たって言うべきでした。これからは自由に生きるとかなんとか」
「お母さん、面白いですね。時々突飛なことをおっしゃるのですか?」
「全然です。まさかそんなタイプだとは」
やはり緊張していたのだろう。ひとたび口を開くと、言葉が勝手に漏れ出た。
蜂蜜の瓶を頼りに北海道に行ったこと。そこに私の元カレがいたこと。母がインスタを開いていること。私がそれを覗き見していること。
ずいぶん身内の話を、鳴滝先生に聞かせている。
「これは私の勝手な推測ですが」と先生が言った。
「はい」
「お母さん、本当は漂泊(ひょうはく)の傾向があるのでは」
「漂泊ですか」
西行とか尾崎放哉の名前が浮かんだ。母との共通項はなかなか見出せない。
「鴨下さんはあなたを産んだ後のお母さんしかご存知ないでしょう。そしてそのことを忘れがちです」
それはそうだ。でもそんなこと言ったら…。
ふと母のインスタが気になった。新たな投稿があった。
「今、岐阜県の飛騨を目指しています。女満別から新千歳、そして富山空港へ。富山駅からは特急に乗りました。車窓を突き抜けるような高い山の神々しさに圧倒されます。そんな山の恵みなのか、飛騨は薬草の宝庫だと、養蜂で全国を巡ってきた桑田さんが教えてくれました。長距離移動で体は疲れているはずなのに、このワクワク感はなんでしょう!私はやはり旅人なのです」
雪に覆われた高い峰。紅葉を縫うように流れる川。美しい写真がアップされていた。
旅人宣言。これではまるで先生の言う通りだ。少し悔しい。
鳴滝先生の運転は終始滑らかだった。まるで前から決まっていた予定をこなすかのようだった。
車は高速を下りた。道の両側、針葉樹の並木が闇をさらに濃くする。ワインの醸造所、小さな美術館などを通り過ぎると、道は徐々に細くなった。そして車は静かに停まった。
ヘッドライトが照らすのは、石造りの瀟洒な一軒家。暖炉を備えているのだろう、煙突が見える。
「ここは…」
「私の持ち物です」
ここまで来て、ようやく自分が無茶をやっていることに気がついた。そこには、少しばかりの陶酔感がないわけでもなかった。
しかし次の瞬間、その陶酔は跡形もなく消え去った。
一枚板で出来た玄関の扉がゆっくりと開き、中から一人の女性が現れた。
「ようこそ。鳴滝がいつもお世話になっております」
雪のように白いショートヘアーの美しさが、私の目を射抜いた。
文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ