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COLUMN

2019.12.09

「圭とは別れて」声が震えそうになるのを抑えて、そう告げた。それを言うのがやっとだった。(第6話)

状況から考えて、この女性は鳴滝先生の奥さんなのだろう。

ハシゴを外された気持ちというか、もともとハシゴなんてなかったというか。

私の顔はきっと変な表情になっていたと思う。

「寒いでしょう。中へどうぞ」

車を降りた瞬間から寒かった。東京とは比べ物にならない。しかし、寒さなんて気にならないほど、頬が火照っていた。

 

家の中は暖かかった。リビングの奥に思った通り暖炉があった。本物の薪が燃えていた。暖炉がある家と言っても、壁から鹿の首が突き出しているようなゴテゴテした感じではなく、装飾を抑えたシックな造りだった。

ダイニングには、すでに3人分のテーブルセッティングがされていた。そこにサラダやキッシュ、パテなどが並んでいた。いつの間にか先生はパン切り包丁を手に取り、バゲットを斜め切りしている。

私はかつてないほど頼りない気持ちだった。格好をつけて行き先を尋ねなかった自分を後悔した。

「あの、何かお手伝いを…」と先生に言ってみた。

「鴨下さんは座っていてください」

そう言われても。

先生の落ち着いた口調が気に障ったのは初めてだった。

「はい、じゃあ、失礼します」

声と言うより、隙間風みたいな音を喉から出して、私は席に着いた。そんな気分なのに、座り心地のいい椅子であることは背中が感じた。

 

奥さんの料理はどれもおいしかった。先日のフレンチレストランより好きなくらいだった。勝手なもので、食べるほどに親密な気分が湧くようだった。

ワインを飲みながら、奥さんについての話を聞いた。

名前は文さん。「物書きをしている」らしかった。女優と聞かされても疑わない顔のつくりだ。グレーヘアどころか真っ白な髪。それがむしろ華となっていた。

「映画評とかちょこちょことね」

鳴滝文という書き手に聞き覚えはなかったので、うまく反応できずにいると、

「こちらの名前の方が分かりよいかしら」

と奥さんがペンネームを明かしてくれた。それはコラムなどでよく目にする名前だった。私も何度か読んだことがあった。程よく毒が入っているのに、全体としてはチャーミングな文章。

メディアで顔を見た記憶はない。こんなに美人だったとは。

 

鳴滝先生と文さんのような夫婦を、私は初めて見た。

それぞれが見事に自分の足で立っていた。それでいて向かい合っていた。

カップルとして非の打ち所がないように思えた。素敵すぎてちょっと怖かった。

「ここは本来別荘なのですが、妻は東京より気に入ってしまいました。半分こちらに住んでいるようなものです」

「避暑地は夏より冬がいいのよ、断然。そっちが本当の顔だから」

「でも、怖くないですか」

「私、強いの。猟銃の免許を持ってる。シカやイノシシだって捌(さば)けます」

「この生ハム、彼女が撃ったイノシシです」

「えっ」

「怖い?」

「すごく、おいしいです」

文さんは私よりも小柄だ。お年もそこそこいっているはず。いろいろすごい。

「でも時々は夫にも会いたいじゃない?せっかくだからお友達を誘って来てねって頼んでるの」

「お友達だなんて、私そんな偉そうなもんじゃ。ただの職員です」

「彼だって、ただの本好きよ」

「うん。辞書より重いものは持ったことがない」

「そうね、猟銃なんてとても無理」

 

暖炉を眺めながら、食後のコーヒーを飲んだ。

ここのところ、おかしなことが続いている。

母の旅。鳴滝先生との接近。植木花の出現。

揺れる火を見つめていると、現実感が薄れていくようだった。でも現実ってなんだろう。薄かろうが濃かろうが、今ここが現実だ。

先生が補充分の薪を取りに外に出て行った。ちゃんと運べるのだろうかと、失礼なことを思った。

突然、文さんが私にグイッと顔を近づけて、

「夫がモテるのは悪いことばかりじゃないわ」

と言った。冗談めかしたような口調だったが、本心だと感じた。

「精神衛生的にプラスがマイナスかで言えば、まあプラスね。人によるだろうけど」

私はまた変な顔になる。

「あ、あなたが鳴滝と何かあるとは思っていないから心配しないで。自分のことを本気で好きな子を、私に会わせようとはしないでしょ。男ってそれほど腹をくくれないものよ」

それを聞いて、私はなぜか少し悔しかった。

 

その日は泊めてもらうことになった。朝7時に出れば間に合うとのことだ。

ゲストルームに通された。美しい部屋だった。いまだに子供部屋住まいの私には不釣り合いに思えた。

少し前に弟からのラインが入っていたようだ。

「どこだよ」とひとこと。

だよね、そうなるよね。

父は今週末にはオランダに戻る。それなのに何も言わず家を空けた。まるで植木花を連れてきたことに腹を立てたみたいに取られかねない。

「急に友達の家に行くことになって。ごめんね」

と返した。

写真が送られてきた。

父と弟が写っていた。居酒屋のカウンターで撮られたようだ。上機嫌の父と、少し居心地悪そうに笑う弟。

「ありがとう」と送った。

いつもより大きなベッドに横になり、いつもより高い天井を眺める。母とずいぶん会っていない。こんなに会わないのは、思えば初めてのことだ。

母の不在に対し、父が思いの外冷静なのが引っかかっているのだ。母が旅に出ることに不思議がないとしたら、そこには私の知らない母、そして父の姿があるのだろう。

翌朝、助手席に乗ったまま大学構内まで入るのは気がひけるので、少し手前で降ろしてもらった。先生は「気にしなくてもいいんじゃないですか」と最後まで言っていた。大人の無邪気は罪だ。

昼休み、「お姉さん」と植木花に呼びかけられても、私はさほど驚かなかった。どこか予期するものがあったのだ。

「学校の中で『お姉さん』は止めませんか」

と、言い返す余裕すらあった。

そのことが花には面白くなかったのか、

「奥さん綺麗だったでしょ」

と、いきなり刀を抜いてきた。挑むような視線を隠す様子はもはやない。

「私が言ったの。鳴滝先生に。あの別荘にお姉さんを連れて行ったらって」

「あのね」

「私は奥さんのいない時にも行ったことがある。あなたとは違うの」

植木花は私に暇を与えず、早口に言った。

先生と花は関係を持ったことがあるのだろう。そのことにショックがないわけではない。しかし花は気づいていない。先生が愛しているのは奥さんだ。あの人には勝てないよ。私もあなたも。

でもそのことを口にしたくはなかった。

「圭とは別れて」

声が震えそうになるのを抑えて、そう告げた。それを言うのがやっとだった。

 

帰宅すると、父も弟もいなかった。父は東京の同僚たちと久しぶりの食事会だった。

玄関まで猫が迎えに来てくれた。可愛い。2匹のことは、時々文句を言いながらも弟がきっちりケアしていた。姉としてはそういう優しさが誇らしくもあり、心配でもある。

夕食のことを考える気にもならず、しばらくぼんやりする。母は今日も飛騨の森にいるらしい。

 

「飛騨は日本列島のちょうど真ん中あたりのはずなのに、どこからも遠い場所に来た気持ちになるのです。その寄る辺なさは決して寂しいばかりではなく、どこか心洗われる思いがします。

 今日はブナの木の伐採を特別に見せてもらいました。神様のような大木が倒れる様子に圧倒されました。見ている私が試されているようでした」

母が撮ったと思われる写真はどれも美しかった。

うっすら雪が積もる中に、すっくりと立つブナの木。

その根元に鋭角に切り込むチェーンソー。

雪よりも繊細そうに舞い散るおが屑。

旅人としての母に、私の気持ちは少し慣れつつあった。

今日はもう一つ投稿があった。

母の手のひらに、ひとすくいの雪が乗った写真。

そこに添えられた一文に、再び心が乱される。

 

「金沢に行くべき時がきたように思います」

母の口からも金沢。私はこれまで日本海側を訪れたことはない。

母も父も、鳴滝先生や文さんのような底の知れない大人とは違うタイプだと思っていた。

それなのに、私だけ取り残されたような気持ちだった。

 

玄関のドアが乱暴に開いた。

「姉ちゃん、ちょっと」

帰宅するなり、弟は廊下に私を呼び出した。昔から親に聞かれたくない話は廊下でやった。今日は親がいないのだからどこでも良さそうなものなのに、やはり廊下だった。

弟は階段の3段目に、足を投げ出すようにして腰掛けた。私はその前に立たされた。

「余計なこと言わなくていいんだよ」

怒気を無理に抑えたような口調だった。

植木花と、もう会ったのか。花はどこからどこまでを弟に話しているのか。一段と楽しくない話題だ。胃が気持ち悪い。

「あのね」

頭の中で次の言葉を探す。どうしても言い訳臭くなるのが歯がゆい。

先に口を開いたのは弟だった。

「はっきり言っとくけどな、俺は花とは別れないよ」

低い声できっぱりと弟は言った。

でも、あの子は、と言いたかった。それなのに、私の喉は閉ざされてしまったかのように、声が出なかった。

 

文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ