「パパ、来週帰ってくるって」
遅くに帰宅した弟にそう告げた。時計は22時を回っていた。
「へえ、そうなんだ」
弟は気の抜けた返事をよこした。
「そうなのよ」
「で?」
「で?じゃないでしょ。で?じゃ。うちは今どういう状況ですか。ママが居ないこと、パパはまだ知らないんだよ」
「ああ、そっちか。それはそうと、なんか食べ物ない?」
全く何なのだこいつは。気を揉んでいる自分がばかばかしくなる。
「食べてきてないの?私は外で済ませちゃった」
本当は、お昼の余韻が長引いて夕食のタイミングを逃したのだった。鳴滝先生とのランチ。前菜からデザートまで残さず食べた。普段の昼の倍は食べただろう。気を使ったわけではない。最高においしかったのだ。でも、この分だと変な時間にお腹が空いてしまうに違いない。悩むところだ。
「ないものはしょうがないね」
冷蔵庫を開けながら弟が呟いた。
「うん。ごめんね。買い物してないから何もないわ」
「違うよ。居ないものはしょうがないって言ったの」
「ママのこと?」
「そう。ほんとのこと言えばいいじゃん。別に俺らのせいじゃないでしょ。なんだったら親父に問題があるんちゃうの。知らんけど」
「変な関西弁混ぜるのやめて。何なのそれ。今は関西の子と付き合ってんの?」
「うるせえよ」
弟は不機嫌そうに言った。
私は一応母の居所をつかんでいるが、彼はそうではない。生存確認程度の短いテキストが入るだけ。心の中は穏やかではないだろう。
母のインスタの存在を教えてやりたくなった。でもできなかった。弟は良く言えば純粋なところがある。母に直接的なアプローチをするに違いない。
しかしそうなると、母はインスタの更新をやめるかもしれない。それは避けたいと思った。
弟は、コーンフレークに牛乳を注いで、朝食の前借りのようなことをしている。
「お前らも飲むか」
足元に寄ってきた2匹に、弟は猫用ミルクを出してやった。
臆病なモナカとやんちゃなゴマは、普段から気が合うような合わないような感じだが、食事の時は意外と友好的だ。お互いを牽制し合うこともない。
皿をペチャペチャと舐める姿を眺めつつ、弟はキッチンに立ったままコーンフレークを食べ始めた。乱暴にスプーンを動かして、あっという間に平げた。
なんかごめんね圭、と私は声に出さず謝った。
その夜の母のインスタ。
「旅に出て、1週間が経ちました。
今日はミツバチたちが旅に出るのを見送りました。見送る側に立つというのは、どこか胸が締め付けられるものです。
不意に昔のことを思い出しました。長女が幼稚園に入り、バスを初めて見送った日です。私は解体された気分になりました。陶器が割れるように、私の体がその場に崩れるのを、私ははっきり見ました。悲しくはないのに涙が出ました。訳の分からない話でごめんなさい!
さあ、私も次の場所に向けて出発しようと思います。今度の行き先も風に聞こう!」
母のインスタに私の話が出てきた。そんなことがあったなんて、私はもちろん知る由もなかった。私はただ楽しく幼稚園に通っていた気がする。いや、本当はまるで覚えていない。
ちょっと泣きそうになった。涙が出るのをしばらく待ってみたが、出なかった。なぜだろう。
「海野くん、行っちゃったじゃん!」
感傷がスーッと引くのがわかった。
連絡先聞いてくれた?
私のこと何か言ってた?
ママもトラックに乗ってついて行けばよかったのに。
身勝手な発想が次々に溢れてきた。
すぐにでもコメントしたかった。でも、あの若手の養蜂家はどうなりました?と聞くわけにもいかない。
悶々としていると、案の定お腹が空いてきた。ここで食べたら負けだと思いつつ、隠してあったチョコレートを食べた。
翌朝は、下北沢駅からすぐ座れたので楽ができた。
果てしなく広がる住宅街の中を、井の頭線は進む。東京の電車の中でも、この路線はどこかのんびりとしている。
学生の頃は必要に迫られて、車内でも読書をしていたが、最近は本の一冊も持ち歩いていない。
インスタを開いた。母の次なる目的地はまだ明らかにされていない。スマホをトートバックにしまった。オーシバルの真っ白な帆布製、いちばんシンプルなやつ。春夏向けにと使っていたはずが、気がつけば冬が間近だ。
以前は、父からの就職祝いとして貰ったゴヤールのトートを使っていた。でもいつしか手が伸びなくなった。どうもいまいち似合わないのと、総柄が少しうるさいのと、街でよく見かけるのと、何より先輩職員のひとりに「それ私も欲しかったのよね」と言われた時の悪寒を忘れられないのが原因だ。
明大前の駅で乗客がどっと降りた。向かいのシートの人の顔が見えるようになった。ちょうど目の前に座る若い女の子が、私の顔を見ているような気がした。たまたま目の角度が合っているだけかと思ったが、どうも視線に意思を感じる。睨まれているわけではないが、友好的な雰囲気でもない。
男だったらこれくらいで喧嘩になるのかもしれない。弟が高校生の頃、電車で目が合った合わないで殴り合いをしたことがあった。相手は本物の不良だったようで、弟は鼻血を押さえながら帰ってきた。動転した母と私が、警察に言おうとしたら「やめな。あっちだってダメージ受けてんだから俺もパクられる」と、弟は格好をつけた。
結局可愛いんだよなあ、圭って、とか思っていると、向かいのその子に見覚えがある気がしてきた。うちの学生じゃないだろうか。そうだ、英文科の子だ。つまり鳴滝先生のところだろう。
ウェーブのかかった明るめの髪が肩にかかっている。薄いグレーのコートはゆるっとしたコクーンシルエット。甘い雰囲気の装いと、綺麗だが少し神経質そうな顔が、どこかアンバランスだった。
名前は知らない。あちらが私を知っているとも思えない。それなのに注がれる視線が冷たい。進んで受け容れたいものではない。
私はまたスマホを取り出し、なんとなく画面を見て時間を潰した。案の定、終点の吉祥寺まで向かいの席の彼女も一緒だった。歩調が合わないように気をつけながら、大学まで歩いた。
途中、ベンツのワゴンが私を追い抜いて行った。色が違うから鳴滝先生の車じゃないことは明らかなのに、なぜかドキッとした。
運転席での先生の姿を思い出す。ハンドルをあんなにフワリと握る人を初めて見た。握っているというより、撫でているのに近かった。
食事の間も、先生の指は繊細に動いた。縦長の爪の形を私はすっかり覚えてしまった。そんな自分に少し呆れる。
講義と講義の合間の時間に、鳴滝先生と廊下で出くわした。平静を装い、昨日のお礼を言った。
「車だったのでワインを頼めなかったのが心残りです。今度は自転車で行きましょうか」と先生が言う。私は「はい。自転車、好きです」とつまらない返事をしてしまった。
その後先生から二、三、業務連絡を受け、別れた。事務室に入ろうとすると、廊下の奥で誰かが私を見ているのがわかった。
井の頭線の子だった。
鳴滝先生とあの子は、何かある。直感がそう告げた。
後ろ手にドアを素早く閉めた。
私は彼女のことを頭から無理やり追い出そうとした。
そうでもしないと落ち着かなかった。
なのになぜ、その彼女が我が家に居るのか。
週末、父が赴任先のオランダから一時帰国した。
その夜、父、私、弟に混じって、彼女も席についている。
電車で見た時とは別人のように柔らかい表情だが、間違いようがない。あの子だ。
帰宅した父は、「母が友人と旅行に出かけている」という設定にやや疑問を持ったようだったが、息子が恋人を連れて来たことの喜びが上回ったらしい。上機嫌だ。
でも、私は体が硬直していた。
「うえきはな、と言います。植木鉢の植木に、フラワーの花です。いま大学2年生です」
彼女は少しハスキーな声で自己紹介した。それにしてもずいぶんボタニカルな名前。父は妙に感心している。
「私いま、オランダにいるでしょ。街中花だらけなんですよ。何かいい縁がありそうなお名前だ」
「姉ちゃんの大学に通ってることは、別に隠してたわけじゃないんだけどね。なんか言い出すタイミングがなくて」
弟は言い訳をした。別に私はそれを咎めるつもりはない。まあ、何かと面倒に思う気持ちもわかる。
でも、あの挑むような視線と、この穏やかな微笑みとを、ひとつの体の中に持っている彼女が、私は怖い。
そして私がそう思っていることも、彼女は重々承知しているのだろう。
途中、弟を廊下に呼び出し「どうなってんのよ?」と尋ねた。
「どうって何が?」
「家に彼女呼ぶなんて珍しいから」
「ママの家出をボヤかすためだよ。こうでもしないと、乗り切れないだろ」
弟は小声でそう言った。
私、あの子、嫌。
ママ、早く帰って来て。
子供みたいなことを私は思った。
文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ