COSME DE NET

FOLLOW US

  • .&cosme
  • .&cosme
  • .&cosme

COLUMN

2019.11.04

「私はもともと、猫は大嫌いなの」と母が言い切ったのを聞いて、ちょっと震えた。嫌いだなんて…。(第1話)

私の母は、50歳を目前にしたある日、

「これまでの自分を捨て、明日から徹底的に自由に生きる」と宣言した。

それを聞いていたのは、私と弟。それぞれ26歳と22歳。

他には2匹の猫。

父は海外に単身赴任中で、年に数回しか顔を見ない。

「文化の日」の昼だった。11月3日は「晴れの特異日」といわれる。日本国内において毎年極めて高い確率で晴天になると、気象学的に認められているらしい。その年も、見事な快晴だった。

母の決意表明が、あえてこの日を選んでなされたものなのか、今となってはわからない。それでも澄み渡った空と、いつになく大きな母の声との組合せは、妙な迫力があった。

私も弟もしばらく無言であった。どちらかと言うと控えめな母が、おかしなことを言い出したのだから無理もない。

私は夕方から、友人と会う予定だった。それまでは家でだらだらしようと思っていたのに、風向きが変わってきた。

「自由にって、何すんの?」弟が聞いた。

「旅に出ます」

「旅?一人で?」

「一人よ」

「何日くらい?」

「そうねえ。長ければ長いほどいいよね」

旅と聞いて私がまず思ったのは、「猫どうすんのよ」だった。

2匹の猫は、元々弟がうちに連れてきた。大学に入学して1週間で同級生の彼女を作った弟は、あっという間に家に帰ってこなくなった。うちから通った方が近いのに、彼女の一人暮らし先に入り浸ったのだ。

そこに子猫がいた。黒いのが「ゴマ」で、薄茶が「モナカ」。大学生の一人暮らしで猫が飼えるとはなかなかだが、性格もなかなかだったらしい。奔放な弟より、彼女はさらに上手だった。当時3年生の、学内でも有名なモテ男にあっさり乗り換えたのだ。で、このモテ男が重度の猫アレルギーだったので、彼女は弟に猫を託した。「圭くんにはすっごく懐いてたよね」

こうして弟は猫連れで我が家に帰ってきた。かと言って落ち着きのない弟が世話をするわけもなく、自然と母が猫の面倒を見るようになった。猫たちも「すっごく懐いてた」はずの弟には目もくれず、母に心を許していた。

だから、

「私はもともと、猫は大嫌いなの」

と母が言い切ったのを聞いて、ちょっと震えた。嫌いだなんて、とてもそんな風に見えなかったからだ。

「こんなに可愛がってるのに?」

「義務感よ。本来は圭が飼い主なんだから、これからはよろしくね」

「俺、飼い主なのかなあ。押し付けられただけだよ」

「今さら何言ってんの」

母はPTAの委員とか自治会の役員とかをいつも引き受けていた。そんなもんかと思って気にも留めなかったが、義務感が人一倍強かったのだろうか。

「とにかく、明日から私のことは一切あてにしないように。連絡は必要があればこちらからします」

 

私は都内の女子大を卒業した後、その大学の事務室に職を得ていた。我ながら冒険心に欠ける進路である。

弟は昔から成績優秀で、足が速く、顔もまあまあよかった。大学4年生で、翌春からの就職が決まっていた。残りの学生生活、彼女(いったい何人目か)と楽しくやっているようだ。

確かに母に頼らなくとも、一応は生活できる。でもそんな考え、今まで浮かんだこともなかった。

その夜、友人と会うには会ったが、どうにも調子が出なかった。母の自由宣言が頭から離れない。お酒も普段より早めに切り上げた。胸騒ぎを忘れようと、さっさと眠った。

翌日は振替休日だった。早めに就寝したせいで、朝6時に目が覚めてしまった。休みだというのにもったいない。

生まれてこのかた実家暮らし。年を経るごとに、それ相応にバージョンアップしているつもりだが、「子供部屋」には違いない。本棚なんて小学生の頃から同じものを使っている。

天井には無数の星が散りばめられている。夜、うっすらと光る。幼き日の私がリクエストしたのだ。張り替えたいくらいだが、結構な手間がかかるだろうからそのままだ。

星柄天井を眺めながら、二度寝のタイミングを計っていると、階下から物音がする。早くも誰かが起きているらしい。

弟が起きるはずはないので、母だ。なんだかんだ言って結局家事をしているようだ。少し拍子抜けしつつ、様子を見に行った。

すると、キッチンで慌ただしく動く母の姿があった。朝食の準備にしては、食材数が多い。よく見ると、私や弟の好きな常備菜を大量に作っている。

「あら起きたの。早いわね」

私に気づいた母が、快活に言った。

「ママ、これって…」

「最後のご奉公ね。食べ切る前に、味見しながらあなたも作ってみなさい」

決意は変わっていないらしい。

「本当に旅に出るの?」

「そうよ」

「本当の本当に?」

「本当よ」

「どこに?」

「そこなのよねえ。どこに行くか、まだ決めてないの。でも、それがすごいでしょ。今晩どこで寝るか、まだわからないのよ!」

母はかつてないほどウキウキしていた。異変を察知したのか、足元でモナカがニャッと鋭く鳴いた。

午前10時。いつの間に用意していたのか、母はスーツケースを玄関におろした。

タクシーを呼んで、と言われたので東京無線に電話をした。空車はすぐ見つかった。自動音声が「5分で参ります。電話を切ってお待ちください」と言っている。5分と聞いた途端、いきなり心細くなってきた。本当に行くんだこの人。

「気をつけてね。行き先決まったら連絡入れてよ。やけに親切な人には気をつけてね。あとは、変な崖とかに近づかないように」

「大丈夫よ。大人なんだから」

弟はまだ眠っているのか、自分の部屋から出てこない。薄情者め。

家の前に車が停まったような音がする。

「じゃあ。よろしくね。行ってきます」

母は爽やかに玄関を開けた。

愛想のいい運転手がキビキビとスーツケースをトランクにしまう。あれこれ口を挟む間も無く、母は一人旅に出た。

小さくなるブレーキ灯を見ながら、ところであのタクシーはどこに向かっているのだろうと思った。

 

3日経った。

私の詮索には「心配しないで。元気よ」と短い返信があるのみ。

立派な大人だ。体調不安も特にない。それでも気を揉んでしまう。母は多少世間知らずなところがある。

弟は私よりもっと心配そうだった。

母が出発した日にも「本当に何も言ってなかったの俺のこと」としつこかった。

自分への惜別の言葉がなかったことに納得がいかないらしい。だったらちゃんと起きて見送ればよかったのに、面倒くさいやつだ。

弟は高校生の頃、少し悪ぶっていた。坊ちゃんが集まるような進学校の不良なので、たかが知れているのだけれど、本人はその気だった。

友達の家に泊まって、しばらく帰ってこないようなことがよくあった。その度に、母をヤキモキさせた。まさかそのしっぺ返しがあるとは思わなかっただろう。

本当にかわいそうなのは猫たちだ。特に甘えん坊のモナカは、母がどこかに隠れているのではないかと家中を探し回っている。一部屋一部屋ドアの前で、ここを開けろとばかりに鳴き声を上げた。どの部屋にもいないとわかると、今度はクローゼットや、廊下の収納、キッチンのシンクの下まで開けるよう指示してきた。胸が痛んだ。

 

母が不在となると、私たち姉弟がこの家で過ごす意味がよくわからなくなってきた。私が台所で食事を作って、弟に食べさせる必然性はない。私だって忙しい。

外食が増えた。洗濯物がたまった。歯磨き粉が切れた。ゴミ出しを忘れた。

 

1週間が経った。休日は掃除と洗濯にあてるしかなかった。

夕方までかかって、一応の区切りをつけた。ベッドに寝転がって、インスタをチェックした。もはやルーティンになっている。お決まりのフォロー先を流し見して、スマホを置いたが、何かが引っかかった。おすすめの欄に出ていた見知らぬユーザー名だ。もう一度スマホを手にとって確認してみた。

そこにはmonaka_gomaとあった。モナカ、ゴマってうちの猫と一緒だ。弟を振った女がつけた名前だが、そのまま呼び続けてきた。

プロフィール写真はない。試しに開いてみた。

すると、何枚かの写真がアップされていた。特別美しい風景とはいえない。むしろ荒涼とした感じの草っぱらが広がっている。

 

「いつも使っている蜂蜜。そのふるさとを求めて、北海道までやってきました。養蜂場の敷地はとても広いです。花畑を想像していましたが、ずいぶん違いました。ミツバチは暖かいところで越冬するので、もうすぐトラックに乗せて鹿児島に移動するそうです。知りませんでした。

養蜂家の桑田さんと仲良くなり、お寿司をご馳走になりました。桑田さんはとても耳がよく、蟻の足音まで聞こえるそうです」

 

私は1階に駆け下り、キッチンの棚を探った。コーヒーや紅茶、スパイス類に並んで、蜂蜜の瓶があったはず。母は蜂蜜を好んで使う。私は少し苦手だ。

花のイラストが描かれたラベルが目に入った。アカシア蜂蜜とある。これだ。そこには「桑田養蜂場」と印字されていた。

再びインスタ。蜂蜜の瓶の写真。

 

「今年とれた蜂蜜をいただきました。菩提樹です。香りが濃いそうです。しばらく桑田さんのところでお世話になることにしました。乞うご期待!」

 

瓶を持つ指が写り込んでいる。親指の爪の形が母に似ている。

桑田養蜂場を訪ねたmonaka_goma。たどたどしいキャプション。母の気配が濃厚だ。しかしあの人がインスタなんて。

養蜂家の桑田さんは人の良さそうなおじさんだった。蟻の足音を聞き取れる繊細さは写真からは伺えなかった。お世話になるってどういうことだ。乞うご期待って、何を。

私はmonaka_gomaをフォローすることにした。

文/大澤慎吾 撮影/吹田ちひろ

PROFILE

大澤慎吾 (おおさわ・しんご)

大澤慎吾 (おおさわ・しんご)

文筆家

1977年生まれ。子育てに一喜一憂する日々。 .&cosmeで2019年8月よりスタートした小説連載『大人だって、わからない』が大ヒットしファン急増中! 待望の第二弾連載小説『母のインスタを覗き見する』も1話から人気沸騰。ますます期待大の文筆家。

TAG